ひび割れの盾

 リュナは村の住人たちに手早く危険を知らせる手段を持たなかった。住宅を一軒一軒訪ねて「危ないので逃げましょう」と説いて回るわけにもいかない。そもそも誰がそんなリュナの話を聞き入れる?

 それならせめてと、自分が世話になった家に来て、マーテルを連れ出した。マーテルはリュナがピクニックにでも連れて行ってくれると思っているかのように楽しげだ。

「ララララララ。ララララララ」

 パテルを探しに教会へ向かう途中で、愛犬を亡くした男の子とすれ違った。リュナはクルクル回りながら進む男の子の正面に入り、その小さな肩に手を置いた。

「ここにいたら危ないよ」

「お兄ちゃん、誰?」

「フィリオよ」

「フィリオじゃない。いや、今はそれはいい」

「ククルの散歩をしてるんだ」

「うん。良い子だね」

 その時、遠くから大きな衝撃音が聴こえた。そして、何かがガラガラと崩れる音。

 リュナは一瞬音のした方向を見つめて思案した後、マーテルに向けて言った。

「この男の子を安全な場所に連れていってほしい。今、この村は危険なんだ」

 マーテルはニコニコと微笑みを浮かべながら、不思議そうにリュナを見つめている。どこまで言葉が届いているかわからない。しかしゆっくり説明している時間はない。

「頼んだよ」

 そう言い残し、リュナは音のしたほうへ走った。


 マリードは、巨大な化け物が村の建物を破壊する光景を近くで眺めていた。

 大きな腕を振り下ろし、薙ぎ払い、残骸を足で踏みならしていく。ようやく危険に気づき逃げ出していく住人もいたが、何人かはそのまま瓦礫の下敷きになった。

 怪物は眼球のない落ち窪んだ眼窩から赤い涙を流している。おぞましい中に、どこか憂いを感じた。

 もしかするとこれは、この村に与えられるべき報いなのかもしれない。村の住人は自らの幸せのために、死者を冒涜し続けてきた。罰を被ることになっても、言い訳はできない。

 マリードは、もし自分の命を差し出せというなら、構わなかった。それで死者の怒りが治まるのなら、この命望んで差し出そう。

 だが、マリードにはまだ守るべきものがあった。

 マリードは怪物の進行方向に立った。

 マリードの存在に気づいた怪物が、興味深そうにマリードを見下ろす。

「ジナ」

 怪物が片手を横に伸ばし、それをマリード目がけて振ってきた。

 怪物の巨大な手が体にぶち当たる瞬間、何か柔らかいものがマリードの体と怪物の手の間に挿み込まれた。

 マリードは高速で走る車に正面衝突されたかのように後ろへ吹っ飛んだ。その勢いで地面の上を何度も転がる。

 あまりの衝撃に受け身を取るどころではなかったが、致命傷ではない。まだ体を動かせる。

 マリードが状況を確認しようと顔を上げると、近くに黒装束の男、リュナが立っていた。どこか冷たい目つきで、怪物を見据えている。そして彼のトレードマークである黒の帽子も、同じように。

 体のあちこちが痛んだが、マリードは手をついてどうにか立ち上がった。おぞましい怪物が迫ってくる。

「マリードさん、逃げてください」

 怪物のほうを向きながら、リュナが言った。

「いや、逃げるわけにはいかない」

 マリードの決意のこもった声を聞いて、リュナが横目でマリードを見た。

「ジナとの思い出は壊させない」

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