凶禍の紅蓮色

 リュナはマリードの家から外に出た。その途端、妙な感じがした。

 空気が少し変だ。震えているような。微かに嫌な臭いもある。

「どうしたんだ?」

 リュナを追って家から出てきたマリードが訊いた。普通の人間ではこの些細な変化に気づかないだろう。

 リュナは自分の感覚に従って村の通りを歩いた。人はほとんど出歩いていない。

 村の入り口まで進み、石造りの小さな橋のところまで来た。建物の途切れたそこまで来ると、異変を目にすることができた。

 平原の先、木々が生い茂る森の中で、何かが蠢いている。森の中ほどに乱立している木々が揺れている。

「何だ?」

 マリードが訊いた。それを今確認しようとしているところじゃないか、という言葉をリュナは飲み込む。

 そして、森を抜けたそれが姿を現した。

 とてつもなく大きな動くもの。

 ミイラの巨人。怪物。それがリュナが抱いた印象だ。まだ遠く離れた場所にいるにもかかわらず、その禍々しい巨体をありありと確認できる。

「何だあれは?」

 わかるはずがない、という言葉をリュナは飲み込む。

 怪物は木々を薙ぎ倒し森を出て、平原へ進んだ。地響きがここまで伝わってきた。風にのった腐敗臭が漂ってくる。

 リュナはその怪物が放っている色を見た。体の色ではない。体の内から湧き出てくる、気の色だ。

 暗緑色と紫紺が混ざったような、深く暗い色。怪物はまるで悲しみを嘆いているかのようだ。

「おいリュナ。わかるか?」

 エルピスの珍しく真剣な声色。

「あれは、ユーベルが作用している」

 ユーベル。

 リュナは怪物が出てきた方向に何があるかを考えた。

 池だ。死者たちが葬られている、森の中の窪みにできた池。

 あの怪物は、村のほうに向かってきているようだ。

「信じられない。あれは、幻覚か?」

 マリードは自分が目にした光景を疑っている。無理もない。リュナだって決して落ち着いているわけじゃない。

「村の人たちを避難させたほうがいい」

 リュナは言ったが、マリードはその場から動き出さない。あまりの驚きに判断を失っているようだ。

 このままだと、まずい。だが、幻の中を漂うように生きるこの村の人間たちが、すぐに現実を認めることができるだろうか? 危険が迫っていることを察知できるだろうか?

 怪物はゆっくりとした動作で、しかし着実にこちらへ向かっている。怪物が動くごとに地面が揺れた。

 そのまま一直線に村へ到達すると思われたが、怪物はある場所で一度足を止めた。村の近くにある、ウヴリの茶畑。

 怪物は何か思い詰めたように動きを止めていたが、やがて右腕を高々と振り上げた。そしてそれを勢いよく振り下ろす。直撃を受けた茶畑の地面が大きくめくり上がった。泥が周辺に撒き散らされる。それは憤怒の込められた一撃だった。

 ウヴリの茶畑を見るも無残な形にした怪物は、村への進行を再開した。

 リュナは隣に立つマリードを見た。マリードは先ほどの驚きの表情とは変わり、何かを悟ったような静かな表情だった。この場から動き出す素振りは見せない。

 リュナはマリードを置き去りにし、村へ戻って通りを駆けた。

 降りしきる雨の中、水しぶきを上げて目的の場所へ走る。

 マーテルとパテルの家まで来た。ドアに手をかけると、鍵は開いていた。

 中に入ると、リビングからマーテルが出てきた。リュナの姿を認めると、喜びに表情を緩めた。

「帰ってきてくれたのね、フィリオ。嬉しいわ」

 マーテルはまだリュナをフィリオだと思い込んでいる。しかし今は誤解を解いている場合ではない。

「パテルは?」

「パテル? あの人ならどこかへ出かけたみたい」

 リュナは先ほど教会の前でパテルの姿を目撃していた。もしかするとまだ教会にいるかもしれない。

 マーテルはニコニコと微笑みながらリュナを見つめている。この村に危険が迫っているなどとは微塵も想像していない。

 リュナはマーテルの手を取った。

「行こう」

 手を引かれたマーテルは不思議そうな顔をしたものの、嫌がる様子はなかった。

「お出かけするのね。わかったわ」

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