身を裂く痛み
丘に立っている男の名前は、マリードといった。雨に濡れる短髪はブロンド。年齢はリュナより一回り上に見える。
この日マリードは、丘の上にあるその岩に新たな名を刻んだ。先ほど森の中の池に放り込まれた男の名だ。
「あなたはいつもそうやって、死者の名を刻んでいるんですか?」
リュナは墓を眺めながら立ち尽くすマリードに向かって尋ねた。
「そうだ」
「なぜそんなことを?」
マリードは遠くを見るような目をした。それは記憶を辿っている目だ。
地を打つ雨音が響く。
「忘れるわけには、いかないんだよ」
それは心の奥にある痛みが滲み出たような声だった。
「あなたはあの村の人間ですか?」リュナは訊く。
「ああ」
「あなたは他の人たちとは違う、悲しい色をしていますね」
マリードはそこで初めてリュナのほうを向いた。じっとリュナのことを眺めてから、言葉を継ぐ。
「きみは?」
「リュナです」
「そうか」
マリードは再び墓石のほうを向いた。きっとリュナの表情から何かを読み取ったのだろう。
「私には、ジナという名の妻がいた。もう何年も前の話だが」
マリードが話し始めた。だがなかなかその次を話さないので、リュナは内容を予測して先を促した。
「亡くなったんですね?」
「……ああ」
「あなたは奥さんの死を悲しんでいる。なぜ? なぜ、逃げないんですか?」
レーゲンの村の人間は、悲しみの事実を覆い隠し、幻の世界に生きている。
マリードは一度大きく息を吐き、それから言った。
「私は、村の人間の気持ちが痛いほどわかる。あれを見ろ」
マリードが示した方向は、村の近くの斜面。そこには黄緑色の葉が等間隔で並んでいる。
「ウヴリの茶畑だ。あの葉が、人の悲しみを忘れさせた」
それはリュナも実際に体験している。陶酔を促す一種の麻薬のようなものだろう。幻覚作用もある。
「私も初めはあの葉っぱに縋った。まるで本当に妻が蘇ったかのようだった」
雨は止むことなく変わらずに大地を打つ。
「だが、ふと過ぎったんだ。妻は、ジナは、私が彼女のまやかしと戯れることを望んでいるのか、と」
マリードはリュナにというより、墓石に話しかけるように続ける。
「私は、ジナとともに生きた時を、あの光景を、忘れたくなかった。幻に頼ることは、彼女と分かち合った大切な時を否定することになる。だから私は、彼女の死を受け入れることにした」
リュナはマリードの拳がぎゅっと握り締められたことを見て取った。
話の間を、絶え間ない雨音が繋ぐ。
「辛かった。悲しかったよ。身が引き裂かれたような気分だった。だけど、それが現実なんだ。私は彼女と生きた幸せな時を否定しない。彼女の死を否定しない。そう、誓ったんだ」
マリードがしゃがんで、墓石を指でなぞった。その部分に、ジナという文字を見つける。
マリードは立ち上がり、村のほうを向いた。
「あの村の人間たちはまだ、暗闇の中にいる。明かりを消せば、事実を覆い隠せば、残酷な現実を見ずに済むと思っている」
「あなたは見捨てないんですか?」
マリードは現実を受け入れてもなお、あの村に住み続けている。幻に包み込まれたあの村に。他の場所に移り住むことだってできるはずだ。
マリードはその問いかけにこう答えた。
「あそこには、ジナとの思い出があるんだ。あの場所で、ジナと過ごした。私にはまだ、その思い出を断ち切る勇気がない」
マリードは空を見上げた。分厚い雲に覆われた、どんよりした空を。悲しみの涙を流す空を。
「人間とは、なんて弱い生き物なんだろう」
空を見上げるマリードの顔を、雨が打つ。今にも壊れそうな、儚い瞳。
リュナはマリードの横を通り、死者の名が刻まれている岩に近づき片膝をついた。
「マリードさん。あなたの話を聞けてよかったです。おかげで俺も目が覚めました」
リュナは岩の表面に、フィリオの名を見つけた。
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