さいごの晩餐

 夜、リュナはマーテルとパテルとともに食卓を囲んだ。こうやって三人で食事をするのはもう何回目だろう? リュナは二人の家族として過ごした。

 笑顔と優しさと安らぎに満ちた、家庭の食卓。あたりまえのようで、とても尊いもの。

 リュナは、これで最後となる家庭の味を噛みしめた。

 二人には感謝している。リュナが決して得られないものを、二人は与えてくれたのだ。彼らの笑顔を、ずっと見ていたかった。

「二人に、話があるんだ」

 温かくて美味しい料理を食べていたかった。

「あなたたちの息子、フィリオは、既に亡くなっている」

 帰る場所を持っていたかった。

「目を背けず、現実を受け入れて、そして」

 偽りのない愛情を受けていたかった。

「悲しんでください。フィリオのために」


 フィリオの部屋で過ごす最後の夜。彼の遺品に囲まれた部屋。

「よく言ったな、坊っちゃん。辛かっただろ? 泣いてもいいんだぞ」

 木のような形のハンガーラックの頂上にかけられたエルピスがからかうように話しかけてきた。

 ベッドの端に腰かけているリュナは、何か言葉を返そうと思ったが、何を言っても彼の思うツボな気がしたので、黙っていることにした。

 雨が窓ガラスを叩いている。この村に来てから、一度も雨は止んでいない。

「お前は、他人に弱みを見せるのが苦手だな」エルピスが言う。「いつも傍にいるオレにすら、見せない」

 山型の黒い帽子から、真っ赤な目と凶悪な牙が覗く口が浮き出ている。

「だけどオレにはわかる。お前はとても繊細で、壊れやすい心を持っている。だからこそ、お前は表面的に強固に取り繕う必要があるんだ。弱く壊れやすい自分を守るために」

 リュナはエルピスに言われたことを考える。他人からそのような洞察を受けたことは初めてだ。いつも一人で過ごしてきたから。

 エルピスは赤い目を動かしながら何かを考えている。といっても、動かせる場所は目か口ぐらいしかないのだが。

 エルピスは再びリュナに目を留めた。

「お前が見る世界は、悲しみに暮れている。お前は悲しみに生きてきた」

 エルピスの目がまた横を向く。

「お前たちは、ピトスを探しているんだよな。ピトスとは何か、わかるか?」

「とても強い力を持つもの。人の願いを叶えるもの」

「そんな都合のいいものが、あると思うか?」

「さあ? だけど、人は願わずにはいられない」

 この村の人間のように。

 屋根を打つ雨音が響く。

「俺も、きみに訊きたいことがある」

 きょろきょろ蠢いているエルピスの目がリュナを向いた。

「エルピス。きみの願いは何だ? どうして俺についてくる? 俺と一緒にいて、何をするつもりなんだ? 何がしたいんだ?」

 ついてくるというのは、的確な表現ではないかもしれない。彼はリュナの頭の上にのっているだけなのだから。

 エルピスはしばらくリュナを見つめたのち、口を開く。

「オレがお前と一緒にいるのは、この世界を見るためだ」

 リュナはエルピスから悲しげな匂いを嗅ぎ取った。

「この世界の醜さと、美しさを」


 パテルはリビングのソファに座り、俯きながら両手で頭を抱えていた。

「……フィリオ?」

 彼の頭の中では、現実と記憶が曖昧になっている。息子の、フィリオの笑顔。三人で囲んだ食卓。過ごした日々。

「フィリオは、どこだ?」

 パテルの体はガタガタと震えていた。パテルの精神が、何かを拒絶しようとしている。しかしその片隅には、現実を知ろうとする心が芽生えつつある。パテルの潜在意識の中で、二つの心が戦っている。

 近づいてくる足音。

 マーテルがパテルの傍らに腰を下ろした。

「フィリオ? フィリオは?」パテルが体を震わせながら呟く。

 マーテルがパテルの肩に腕を回し、抱き寄せた。

「フィリオは、いるじゃない。私たちの、すぐ傍に」

 マーテルの穏やかな声。しかし、パテルは彼女の言葉を信じることができなかった。

 パテルの脳裏に、暗黒の感情が渦巻き始める。

 深い、深い、闇だ。

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