誘惑の貴石

 朝、リュナは身支度を終え、この村に来てからの数日を過ごしたフィリオの部屋をあとにしようとする。

 戸口に立ち、一度部屋の中を振り返る。おそらくフィリオが亡くなってからずっとそのままになっているのだろう。机の上には乱雑に物が置かれ、部屋の隅にアコースティックのギターが立てかけてある。リュナはフィリオの人物像を一瞬だけ想像し、そしてやめた。

 入口のドアの取っ手に手をかける。すると背後から批難の言葉を放つ奇声が聞こえた。

「おいコラてめえ待ちやがれ。オレ様を置いていくんじゃねえ!」

 振り向くと、ハンガーラックの上にいる凶悪な顔がリュナを睨みつけていた。

 リュナは黙ったまま興味深く喋る帽子のことを眺める。改めて考えても、おかしな光景だ。

「おい、なにジロジロ見てんだ。オレ様は見せもんじゃねえ。チンタラしてるとぶっ殺すぞ」

 手も足もない、自分では動くこともできないのに、どうやってぶっ殺すつもりなのか? どうしてそんな偉そうな口を叩けるのだろう? 不思議だ。

 リュナは部屋の中を移動し、黒い帽子を手に取って頭に被った。

「フン!」

 エルピスはややご機嫌斜めのようだ。他人の機嫌を気遣わなければならないというのは、やはり窮屈である。一人でいるのが一番気楽だ。

 部屋を出て、廊下を歩く。

 リュナが玄関でブーツを履いていると、廊下のほうからドアが開く音がして、足音が近づいてきた。リュナは後ろを振り返る。

「フィリオ、どこに行くの?」

 すぐ近くにマーテルが立っている。不思議そうな表情だ。彼女の後方には神妙な顔つきのパテルが控えている。

 リュナはマーテルに真っ直ぐに向き合う。

「お世話になりました。感謝しています。あなたたちのように優しい両親を持って、フィリオは幸せだったと思います」

「……フィリオ?」

 リュナはマーテルに近づき、彼女の背中に両手を回した。優しく抱きしめ、温もりを交換し合う。

 名残惜しさがなかったとは言えない。だけどそれは本来リュナが受け取るべきものではない。子は親を選べないのだ。

 マーテルと交差したリュナの視線の先、リビングのドア口に立っているパテルは、何かに怯えた表情をしていた。


 無数の雨音は繋がり合い、一つの落ち着いた音色で響いてくる。降りかかる雨粒は冷ややかに肌を濡らす。色を照らす陽光は上空の雲に遮られ、世界は薄く色褪せている。

「ララララララ。ララララララ」

 楽しそうな歌声が聴こえてきた。通りを小さな男の子がクルクル回りながら歩いている。傘のように雨を弾きながら。

 リュナがぼんやりと男の子を眺めていると、ザッと足音がして誰かが隣に立った。

「彼は、ククルという名前の大事な愛犬を亡くしている」

 そう言ったのはマリードだった。

 リュナは楽しげに舞う男の子をもう一度見る。あの子の目にははしゃぎ回る愛犬の姿が見えているのかもしれない。少年は歌いながら歩き去っていく。

 隣に立っているマリードがリュナのほうを向いた。

「これから私は教会に行くところなんだ。よかったらきみも一緒に行かないか?」

 とくに断る理由もなかったので、リュナはマリードについて行くことにした。

 雨を浴び続けるレーゲンの村を歩く。

 しばらく歩くと、前方に屋根が三角に尖った建物が見えてきた。正面の扉から中に入る。

 礼拝者たちの座席が並び、奥には祭壇がある厳かな空間。マリードが途中の座席に座ったので、リュナもその近くに腰を下ろした。

 座ってみたが、とくに感慨深いこともない。リュナは形のない何かに祈りを捧げたり、頼ることはない。生きるために必要なのは、現実的な力だ。

「この村の人間は、何か悲しい出来事が起こると、ここへ祈りに来るんだ」

 マリードの声が空間に反響する。

「愛する人を亡くしたなら、もう一度その人に会いたい、あの幸せだった日々を繰り返していたい、ってね」

 村の人々はその願望を幻想という形で叶えている。叶えたつもりでいる。過去に縋り、今を見ない。未来を作り出さない。

「外部の人間からすれば、滑稽に見えるだろう。だけど、それが一種の救いなんだ。悲しみに沈まないために。絶望で心を壊さないために」

 何かが気になって、リュナはふと顔を上げた。空間の正面、祭壇の奥の高い位置に、鮮やかな色彩のステンドガラスが見える。その少し下、壁に何かが埋め込まれている。

 それは光を飲み込むような、漆黒の宝石に見えた。

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