朽ち木裏の腐臭

 リュナが名前の知らないその若い男は、ある女性を愛していた。その男の中では、女性はずっと存在していた。自分の命が尽きるその時まで。自分が死にかけていることすら気づいていなかったかもしれない。夢想に生き続けた。その生き方は、幸せだっただろうか?

 男が朽ち果てていた広場に、村の人間が集まっている。担架を運んできて、そこに動かなくなった男をのせた。どこかへ運んでいくようだ。リュナもその後を追った。

 担架を囲む集団は村から出て、背の低い草の生えた平原を進んでいく。雨が降っているが、誰も傘を差していない。レインコートの類も身に着けていない。この村の人間は現実を拒絶している。降り注ぐ雨など気にならないようだ。

 一行は平原を横切り、森の中へ入った。立ち並ぶ木々が既に分厚い雲に遮られていた微かな光を遮断し、さらに暗くなる。雨が葉を打つ音、そして時折野鳥の鳴き声が響いた。落ち葉の散らばる土の上を歩いていく。

 前方に地面の途切れた場所が見えた。近づいていくと、直径十メートルほどの、クレーターのように地面の抉れた箇所だった。そこはほぼ直角の崖のようになっていて、深さは五メートル以上ある。崖の下には深緑色の薄汚れた水が溜まっている。

 村の人々はその崖の周りに集まった。ここが目的地のようだ。

 担架を抱えている男二人が、一度顔を見合わせた後、同時に担架を崖のほうに向けて傾けた。担架から滑り落ちた男の死体が、崖を伝って眼下の池の中へ落ちた。大きく水しぶきが上がったが、やがて水面は何もなかったように穏やかになる。降り注ぐ雨粒だけが水面を打つ。

 その様子を見届けた村人たちは、来た道を引き返し始めた。弔いの一言もなく。涙一滴見せずに。

 リュナはその場に残り、崖の縁に立って緑に濁った池を眺めた。

 この池に、一体何人の人間が沈められてきたのだろう? もし池の水が濁っていなければ、池の底にどれだけの頭蓋を見つけられるのだろう? この池の濁りは、死の色だ。

 レーゲンの村の住人は、人の死を無かったことにしている。

「むごいな」

 頭の上のエルピスが呟いた。

 リュナはこの残酷な光景を目にし、少しだけ、現実に目を戻した。

 現実は、辛く、苦しい。リュナはその言葉に違わぬ道を辿ってきた。親に捨てられ、危険と死と隣り合わせの貧困生活を強いられてきた。帰る場所のない、喜びとは程遠い生活。

 レーゲンの村は、そんな彼の心を救ってくれた。そう、信じたかった。

 リュナは感傷に浸ることをやめ、暗い森の中を歩き出した。

 微かにしか光の届かない、闇。だけどリュナの辿ってきた闇はもっと深い。

 あの少女。声の無い、笑顔の失った少女。

 かつて日々をともにしたフルールだけが、リュナにとって唯一の光だった。

 暗い森を抜ける。空は相変わらずの鉛色。平原の先に、レーゲンの村がある。

 リュナの視覚が何かを捉え、そちらに目を向けた。平原の坂になった部分の上、ちょっとした丘。そこに、人が一人立っている。何をするでもなく、ただじっと立ち尽くしている。

 気になったリュナは、そちらに向けて歩き出した。

 坂を上り、近づいていく。

 立っていたのはどうやら男だ。男の前には、半分が地面に突き刺さったような岩がある。岩の表面には文字のようなものが刻まれている。

「それは?」

 リュナは尋ねた。

 男はリュナのほうを振り返りもせず、こう言った。

「これは、墓だ」

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