陽だまりのような温もり
コン、コン、と木造のドアを叩く二度のノック音。
椅子に座り本を読んでいたリュナは、足音を立てずに入口のドアに近づく。すぐ外側に人の気配。危険な匂いは感じられない。
ドアを開く。
丸くて小さいレンズの眼鏡をかけた男。優しい微笑み。いつもの黄緑色のオーラ。
「久しぶり、リュナ」
春風のように柔らかな声。森の中のような澄んだ匂い。
「お久しぶりです」
入口の外側に立っている男、リブロは、微笑みながらリュナを迎えるように両腕を広げた。リュナはリブロのその仕草を見て、戸惑うばかりだ。
「ああ、そうか。きみは慣れていないんだったな。こういうの」
リブロは広げた両腕を引っ込めた。
「すみません」
「謝ることはない。僕はきみに会えて嬉しい」
「俺もです」
「ちょっとその辺りを歩かないか?」
「はい」
リュナはそのまま外に出ようとしたが、ふと後ろを振り返った。
テーブルの上に置かれた山型の黒い帽子が目に入る。
市場のほうにやってきた。
香辛料の刺激が鼻を通る。出店に並んだカラフルな果物が視覚を躍らせる。集客を仰ぐ活気が耳に心地良い。天気は良く、暖かな日差しに、風も穏やかだ。
リュナはリブロと並んで歩いた。黒尽くめのリュナとは対照的に、リブロは袖の長いゆったりとした白い服を着ている。
「お洒落な帽子を被っているね」
リブロに言われ、リュナは返答に困った。お洒落だと思っているわけでもないし、まさかペットを散歩させるかのようにこの帽子を連れてきたなんて言えない。黒い帽子のエルピスはだんまりを決め込んでいる。それとも、ただ寝ているだけか。
その育ちゆえ、自立心が強く他人に弱みを見せないリュナだが、リブロの前ではつい一歩退いてしまうところがあった。リュナにとってそれだけ特別な存在なのだ。
横を歩くリブロは、終始楽しそうな笑みを浮かべている。まるで久しぶりに会った甥とのやりとりを楽しんでいるかのように。
「この街に来ると、きみと初めて会った日のことを思い出す」
リブロは呟くように言った。
「まるで獣のような目つき」リブロは笑う。「だけど僕は、きみのその瞳の奥に、美しい光を見た」
リュナは黙っている。気の利いた言葉は浮かんでこない。
テラスのある店に入り、飲み物を注文した。
テラス席で、リブロと向き合って座る。
リブロの目が一瞬、リュナの頭上、帽子の辺りに向いて、止まった気がしたが、すぐに元の表情に戻った。何を見たのかはリブロに訊いてみないとわからない。
「きみに、ある町に出向いてほしい」
リブロは仕事の話に入った。秘密結社、『フリーデン』の仕事だ。
秘密結社と呼ぶだけあって、末端の人間であるリュナには、その全貌は明らかにされていない。最高指導者はおろか、本部のある場所すら知らされていない。知る必要もなかった。リュナはただ、最低限の生活を保障され、あとは自分をすくい上げてくれたリブロの力になれればそれでよかった。
『フリーデン』は、「ピトス」と呼ばれる古の道具を探し求めている団体である。言い伝えによれば、ピトスにはあらゆる力を凌駕する、使い方次第では世界を支配できるほどの力が込められているという。『フリーデン』の目的は、その道具を世界の「平和」のために使うことだ。リュナはそんなおとぎ話のようなものを信じ、また世界の平和などという具体性のない寝ぼけた戯れ言を行動理念に置いている『フリーデン』という団体を、不思議に思った。きっと、その日の一食の食事にすらありつけるかどうかわからない、目の前の一日を生き抜くだけで精一杯の生活をしている人間とは、住んでいる世界の違う人間が考えたのだろう。
『フリーデン』のもう一つの特徴は、そのほとんどが「ユーベル」と呼ばれる呪われた漆黒の宝石を所持し、その宝石の力を借りて不可思議な力を行使できる人間で構成されていることだ。リュナにはその素養があった。だからリュナは『フリーデン』の一員になれたのだ。各地の伝承を調査する研究者によれば、その漆黒の宝石とピトスには何らかの関係性が見られるらしい。宝石を追うことは、ピトスを追うことにも繋がる。『フリーデン』は、各地で集めた宝石を、自らの力として使用している。
リュナの目の前にいるリブロは、『フリーデン』の一員であり、リュナを勧誘した人物、リュナの貧困の時代を終わらせた人物である。『フリーデン』の一員として働くことで、リュナは貧しい生活から脱却することができた。リュナはリブロにいくら感謝してもし切れない。いつその辺で野垂れ死んでもおかしくない生活だったのだ。
今、リュナはリブロから指示を受けた。他の町に移動し、調査をしてほしいというものだ。調査というのはもちろん、ピトス並びにユーベルの調査である。リュナに断る理由などない。
用件を告げ終えたリブロが席を立つ。それに倣ってリュナも立ち上がる。
リブロが宿で再会した時と同じように、リュナのほうに向かって両腕を広げた。それの意味するところはリュナにもわかる。腕の中へ飛び込んでおいでということだ。リブロは別れを惜しんでくれている。リュナにとって、そんな人間はリブロの他においていない。
かつてのあの少女を除けば。
リュナはリブロの腕と胸に抱かれた。
穏やかな温もり。
安心の匂い。
親が与えてくれなかった代物。
「胡散臭い奴だったな」
リュナが一人宿に戻った時、テーブルに置いた黒い帽子、エルピスが言った。
「何の話?」
「お前に会いに来たあいつだよ。良い奴ぶっていたけど、その腹の内はどうだかな」
「胡散臭いって?」
「ああ」
「きみが言うのか?」
凶悪な牙を生やした喋る帽子が。
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