高らかな鼻歌
『ラ・キュリオ』の店から出た途端、嫌な臭いがした。憤怒に塗れた激しい感情。
リュナは慎重に周りを観察しながら移動する。昨日、マッドを見逃してしまったことを後悔した。何らかの手段で報復に出ないとも限らない。マッドにとって昨日の出来事は屈辱以外のなにものでもない。
マッドもリュナと同じスラム街の出だ。マッドは私利私欲のためにいくらでも他人を利用する男。それが彼の生きる術だった。彼の歪んだ思想は生まれつきか、そうでもしなければ生きていけない環境の末に編み出したものなのかはわからない。リュナはマッドを否定することはできない。リュナにできることは、できるだけ関わらないようにすることだけだ。
寝泊まりしている宿の部屋まで戻ってきた。近くに妙な匂いはない。
部屋に入る。照明はあるが、とくに点ける必要はない。リュナは暗闇に慣れている。幼少期を真っ暗な場所に閉じ込められて過ごしたのだ。そのことが彼の特異な性質を呼び起こすことになった。一つの刺激に二つの感覚が同時に反応する。
何も載っていないテーブルの上に、黒い帽子を置いた。山型の、皺くちゃな帽子だ。
自分は一体なぜこの帽子を欲したのだろうか? 『ラ・キュリオ』で自分がとった行動が理解できない。
「おい、暗くて何も見えねぇぞ」
唐突な声に虚を衝かれたリュナは、瞬間的に体を固くした。
声? どこから? 部屋の中に他人の匂いなどない。
「明かりを点けろ明かりを」
準備のできていた二度目は、声の出どころがわかった。テーブルの上からだ。
リュナは言われた通り部屋の照明を点けた。当然、テーブルの上には先ほど置いた黒い帽子がある。
声は、少し高めの成人男性の声に聴こえた。
山型の帽子はクシャッと歪み、その皺が人間の顔に見えなくもない。
顔だとするとその目の部分にあたる皺が、大きく開かれた。そこから真っ赤な瞳が出現する。真っ赤な中に、黒く鋭い瞳孔。帽子は不気味な目つきでリュナを睨みつけた。
「おい、テメー」
帽子の開いた口から凶悪な上下の牙が覗いた。
「オレ様を誰だと思ってやがる」
ずいぶんと偉そうな口を利く帽子だ。やはり『ラ・キュリオ』の代物、ただものではなかった。
「誰だ?」リュナは訊く。
「ん? オレか? そういえば誰だっけ?」
「忘れたのか?」
「いや、覚えているはずなんだが。ちょっと待て、今思い出す。確か。そう、エルピスだ。エルピスと呼ぶがいい」
「リュナだ」
「おう、ごきげんよう」
「きみは初めから喋る帽子だったのか?」
「オレ様を誰だと思ってやがる」
「エルピスだ」
「その通り!」
なんだか呆けかけた老人と話しているような感覚があった。そもそも相手は人間ですらないが。妙なものをもらってきてしまった。リュナは騒がしいのが好きではない。
「おい、お前」
「リュナだ」
「リュナ。貴様今、オレ様をその辺に捨ててこようと考えただろ」
「ご名答」
「残念だが、今からオレ様と貴様は運命共同体。切っても切れない関係性となった」
「そんな約束した覚えはない」
「それがお前のためだ」
「なぜ?」
「オレ様を誰だと思ってやがる」
リュナは大きく溜め息を吐く。早くも帽子とのやりとりに疲れてしまった。
赤い目に、血肉に飢えたような凶悪な牙。それでいて、危険な色や匂いは感じられない。それが相手が人間でないからなのかはわからない。そもそも人間以外のものと言葉で会話するのはリュナは初めてだ。そういう存在があることを聞いたこともない。
「なんだよ。オレ様をじろじろ見やがって」
なぜだろう? 不気味な喋る帽子からは、温かい白い光さえ感じられた。
「静かにしてくれないか。そろそろ寝たいんだ」
「なんだと? そりゃこっちの台詞だ。フン!」
エルピスはピクッと動いて、目と口を閉じた。皺の刻まれたただの黒い帽子になる。
やれやれ。
リュナはバスルームに行き、シャワーを浴びた。
部屋に戻れば、あいつが待っている。他の誰かを意識することになるなんて。ずっと一人で過ごしてきたリュナは、それが窮屈であり、新鮮でもあった。
嫌な夢だった。夢なんて大抵は嫌なものだし、それが夢だとわかっていても、憂鬱だった。
街が燃えている。しかしただの火事ではない。燃えている炎はオレンジがかったものではなく、どす黒い炎だ。闇の炎が街を飲み込み、全てを焼き尽くしている。まるで地獄のような光景。
一体どこの街だろう? クールンの街並みではない。リュナの記憶に無い街である。
炎はある種人間の精神に安定をもたらす。蝋燭の火をじっと見つめると落ち着くものだ。
だがその闇の炎は、リュナの心をかき乱す。リュナの内側から最も汚らわしい部分を吸い出して、それを飲み込もうとしているような。闇の炎はまるで意識を持っているかのように燃え盛り、邪悪な魔の手を伸ばしている。
リュナは炎に囲まれた空間に、黒い物体を見つけた。それは帽子のように見える。
闇の炎の中で、その帽子は不気味に笑っていた。
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