希望という名の箱

 木の葉のように風に揺られ宙を舞うエルピスは、ヴァンが辿った結末を目撃した。

 エルピスがこの世で初めて目覚めた時に目にしたのが、無邪気な幼いヴァンの顔だった。通常産まれたての赤ん坊は母親の顔を目にするものだが、エルピスが目にしたのは鼻でも垂らしていそうなチンケなガキだった。

 ヴァンは泣き虫で、事あるごとにすぐ泣いた。本当の両親が傍にいないことは、リュナと同じだった。

 小さな少女だったヴァンは、エルピスを玩具のように扱った。口が悪く凶悪な顔をしているエルピスに対し露ほどの恐怖も抱かない。エルピスはよくヴァンの遊びの相手をさせられた。ヴァンがその小さな頭にエルピスを被ると、ぶかぶかでヴァンの顔が半分ほど埋まってしまった。

 エルピスの印象に残っているヴァンの記憶は、ヴァンの子供時代がほとんどだ。ヴァンはある時に自分が犯した罪と運命を悟り、他人には気づかれないほどに小さく心の扉を閉ざすようになった。エルピスだけがその変化に気づいた。彼女は孤独を選択したのだ。

 あともう少しだけ近くに、あいつの傍に寄り添ってやればよかった。僅かな後悔を残して、エルピスは宙を舞う。



 闇の炎の合間を縫って、エルピスはそいつの前に降り立った。

 周囲はとぐろを巻いた炎。禍々しい光景。その中心に奴がいる。

「よう、調子はどうだ?」

 陽気な声色でエルピスは言った。

 奴の反応はない。無視は奴の十八番だ。

「ハハ。お前、ずいぶんと景気よく暴れやがったな。後始末をするオレの身にもなりやがれ」

 闇の炎をまとった赤い二つ目が、エルピスを観察するように眺めている。

「お前は普段は静かだけどな、オレにはわかってたぞ。お前の内側にはいつも沸々と何かが煮え滾ってるってことがな」

 そいつはただ黙ってエルピスを見つめている。

「なんだ? なんとか言いやがれ。もしかしてオレのことも忘れたのか? ふざけるなよ。オレはお前の相棒だぞ」

 そいつは動かない。

「お前の気持ちもわからなくはない。お前はこの世界でそれだけのものを目にしてきた。だけどな、こんなことして何になる? 楽しいか? 愉快か? オレにはそうは思えねえな。お前はただ絶望を上乗せしてるだけだ」

「いつかお前に言ったよな? オレがお前と一緒にいるのは、この世界を見るためだって。その結果が、これか? お前はこんなものをオレに見せるつもりか?」

「ああくそ。なんか無性に腹が立つな。裏切られた気分だよ。お前がこうなったからじゃない。お前がオレを置いていったからだ。なぜオレに頼らなかった? お前にとって、オレはその程度の存在か? オレはお前の相棒じゃなかったのか?」

 そいつが少しだけ身動きした。

「お前の気持ちを言ってみろよ。今のお前の気持ちをな。悲しみも絶望も、全部言葉にして口にしろ。オレがお前の気持ちを受け止めてやる。一人で抱えることが美徳だと思うな。お前はそんなだから女に愛想を尽かされるんだ。そう、お前は結局逃げてるだけだ。楽なほうへ楽なほうへ。臆病なんだよ。それ自体は悪いことじゃない。人はみな臆病なもんだ。だから、だ。だからこそ、他人を頼れ。オレはそのための相棒なんだからな」

 そいつが小さく体を揺らした。

「怖いだろ? 一歩前に踏み出すのが。閉じこもった場所から外に出るのが。お前はその殻で自分を守ってる。そこから出たら、ただの剥き出しの剥き身だ。ぷりっぷりってやつだ。美味そうだろ? そんなんじゃ自分を守れない。だけどな、そうしなきゃ何も始まらい。お前はそのまま化石になりたいのか? 欲しいものがあるんじゃないのか? 影に隠れてないで、光を浴びろ。頭ばっかり動かさないで、体を使え。お前が思ってるほど、人は弱くないんだ。傷ついたって、休めばその傷も癒えてく。前に進んでついた傷ならな。そんなもんかすり傷だ。止まってるばかりじゃ直撃する。そんなら自分から向かっていけ。攻撃は最大の防御だ」

 そいつは何か言いたそうに顔を動かした。

「おいリュナ。好き放題言われるばかりで、悔しくないのか? 悔しかったら、向かってこいよ。さあ来い。来やがれこんちくしょー。お前じゃオレに敵わない。どうしてかわかるか? お前はまだただの鼻垂れ小僧だからだよ! ハハハハハハ!」

 そいつが身じろぎを始めた。

「おっと。ようやく喋る気になったか? かかってこい。オレの本気を見たことがないだろ。お前なんてオレのでこぴん一発だ。はっ! オレに指なんてないと思ったか? 馬鹿にするなよ。オレを誰だと思ってる?」



 エルピスだ。

 闇の中に残存しているリュナの意識が、そう呟いた。

 饒舌な黒い帽子。真っ赤な鋭い目。凶悪な牙。

 こんな変わり種が自分の相棒だなんて。可笑しくて笑ってしまう。

 真っ暗闇の無の中、一筋の光が差し込んでくる。

 眩しすぎて、直視できない。

 向こうの世界は温かすぎて、恐ろしい。

 ここにいたら楽だ。何もしなくていい。悲しみもなければ、絶望もない。

 このまま静かに眠りたい。だけど喧しくて眠れない。

 闇に開いた扉はほんの僅かだ。あいつは外で待っている。無理やり連れ出そうとはしない。

 あの扉を閉じてしまえば、それで終わりだ。もう光が覗くことはない。

 だけど……。

 向こうの世界には色があり、音があり、匂いがある。

 絶望があり、希望がある。

 世界があって、自分がいる。

 それを手にする覚悟があるか? 立ち向かう勇気があるか?



「そうそう、そういえばまだ言ってなかったよな? お前たちが探してたもの。なんつったっけ? その、あれだあれ。人の願いを叶えるもの。中が空洞になってるもの。ああ思い出した。もうわかっただろ? それとも初めから知ってたか?

 オレが『ピトス』だ」

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