有終の月

 それはまるで大きな一つの生き物だった。あらゆるものを喰らい、炎の及ぶ範囲を広げていく。美しい情景を誇る花の都フィオーレは、漆黒の怪物と化した。夜すら焼いていくように、高々とその炎の腕を伸ばしていく。

 闇の炎の中心に、それはいた。光を見失い、絶望して世界から目を背けたそれは、ただ殺戮を繰り返すだけの傀儡となった。それはもう止まらない。世界を破壊し尽くすか、その身朽ち果てるまで。

 炎の進軍は留まることを知らず、飽きもせずに行進を続けた。



「なあ、ヴァン。もうわかっただろ?」

 頭の上のエルピスが口を開いた。

「何が?」

「たとえ今あいつのユーベルを砕いたとしても、この漏れ出た炎を綺麗さっぱり掃除する術なんてねえんだよ」

「じゃあどうしろって? このまま指を咥えてあれが広がっていくのをただ見てろっていうの?」

「オレはあいつと話がしたいんだ」

「正気? あの子はもうあんな感じに仕上がってる。それにどうやってあそこまで近づくつもり?」

「お前が連れてってくれるんだろ?」

 エルピスは楽しげに、挑発するように、言った。

 ヴァンは大きく溜め息を吐く。

 それから、小さく微笑んだ。

「エルピス。あなたそんなにあの子のことが心配なのね」

「ああ。危なっかしいガキだからな」

「なんだかちょっと、嫉妬しちゃう」

「お前はいい女だよ」

「出任せ言うな。でも、いいわ。あなたがそこまで言うなら、私がなんとかしてあげる」

 ヴァンは箒に乗って上空を旋回しながら、進むルートを見定めた。

「なあ、ヴァン」

「なに?」

「死ぬなよ」

「……ふふ。あなたもね」


 ヴァンは地上で沸き立っている炎を挑発するように、徐々に飛ぶ高度を下げていった。蠢く闇の炎がこちらに狙いをつけているのがわかる。獲物がテリトリーに踏み込む瞬間を今か今かと待ち侘びている。せっかちな炎だ。

 ある高度まで下りたところで、炎の塊の二ヶ所から噴火するような勢いで火炎が襲ってきた。

 ヴァンは炎をかわし、高速で蛇行する。置き去りにした炎の腕が折れ曲がり、ヴァンに食らいつこうと追ってきた。被った黒い帽子が風圧で後方に飛んでいきそうになったのをぎりぎりで押さえる。後でエルピスにどやされるのは気に食わない。

 二つの炎が空を舞う竜のように体をくねらせながら後ろから迫ってきた。ヴァンは瞬間的に飛ぶ角度を鋭く変え、やり過ごしていく。

 先ほど、ユーベルがある本体に強烈な雷を打ち込んだが、効果がなかった。おそらく、エネルギーがユーベルに届く前に闇の炎に飲み込まれたのだろう。この炎はあらゆるものを喰らって糧とする暴食の悪魔だ。まったく、こんなにでっかくなっちゃって。

 お腹を空かせた子供には、ご飯を与えればいい。ヴァンは箒の先端を空に向けた。

 上へ、上へ、飛んでいく。炎が下から追ってくる。

 夜空に三日月が見えた。美しかった。空はまだ闇に侵されていない。夜がこんなに明るいなんて。

 ヴァンはその瞳に月の煌めきを灯した。これが自分が見ることになる最後の月であると悟った。

「綺麗だな」

 エルピスのぼそっとした呟きが聞こえた。ふふ、あんたはいつからロマンチストになったんだい? でもきっと、その言葉はエルピスの優しさだ。

「押し流せ」

 ひとときの安寧を終わりにしたヴァンは、そう囁いた。

 はるか上空に、白い線のようなものが横に走った。そこから、星に吸い寄せられた飛沫が降ってくる。舌を出したように徐々に下へ下へ落ちてくる。

 出血大サービス。超特大瀑布の出来上がり。

 大容量の水を擁した滝が流れてくる。ヴァンはその滝に沿って上昇した。

 下を見ると、予想した通り追ってきた炎が滝に食らいついた。食欲を満たすことしか頭にないけだものめ。

 ヴァンは滝の頂点を越え、身を翻して下降に入る。下りるのは滝の裏側からだ。

 滝の表のほうでは、黒炎が巨大な瀑布をむしゃぶっている。水すら燃やすなんて、なんて炎だ。だけどその水流はまだまだ出てくる。そう簡単に食い尽くせないぞ。誰が作ったと思ってる。

 ヴァンは隕石のように地上へ直行した。炎が滝のほうへ流れている今がチャンスだ。

 炎の隙間から、本体が僅かに見えた。しかし近くの炎が噴火し襲いかかってきた。ヴァンは旋回を余儀なくさせる。


「ねえ、エルピス」

「はあ? なんだこんな時に」

「あなたはこの世界のこと、どう思う?」

「どうって?」

「美しい? それとも醜い?」

「そんな単純なもんじゃないだろ」

「はっきり言いなさいよ。あなたの考えを」

「うーん、まあ、あれだな」

「あれってどれよ」

「そこまで悪いもんじゃない」

「……ふーん。てことはつまり、好き?」

「さあな」

「ねえ。私はさ、罪を償えたのかな?」

「お前に罪なんてない。初めから」

「……」

「もう疲れたんだろ。ちょっとぐらい休んでこい」

「……そうね、そうしてもいいかな?」

「お前は見ていればいい。その目で」

「うん。エルピス、ありがとう」

「何がだ?」


 ヴァンは被っていた帽子を手に取った。そこにふっと息を吹きかける。

 帽子はゆらゆらと渦巻くようにして飛んでいった。彼のもとへ。

 ヴァンの進行方向から闇の炎が壁のように立ち上がった。このタイミングでは避けることは不可能だ。

「バイバイ、エルピス」

 漆黒の焔が彼女を飲み込んだ。

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