硬く冷たい氷

 即死だった。

 重い衝撃音と、一瞬の地面の揺れ。

 近くの人間がそれが人の形をしたもの、少なくともかつてそうだったものだと気づくまでに、ほとんど時間はかからなかった。

 時計台の前の広場に人だかりができる。大抵の人間は凄惨な光景に対する拒絶よりも、好奇心が勝った。人は恐ろしいものほど自ら進んで目にせずにはいられない。

 状況からして、それは明らかに上から落ちてきた。見上げるべき場所は一つしかない。

 この夜の町を象徴する、時計台。日で時刻を計れないこの町に、必要なもの。時が止まっていないことを認識させてくれるもの。

 高い位置にある時計盤のさらに上、前後左右全て見渡せる展望台。

 女は、そこから身を投げ出したに違いない。

 なぜそんなことを、という疑問に答える者はいなかった。

 なぜなら、当事者である女はもう二度と口を開くことはないからだ。


 大きな一つの皿に米、野菜、肉、貝、魚介などが一緒くたにされてスープで炊かれた料理が出てきた。食欲をそそる香ばしい匂い。彩りも鮮やかだ。

 リュナは路上で泣いていた女性、ソレッラとともにレストランにいた。

 小皿に取り分けてから、スプーンですくって料理を口にする。食感の違う食材が口の中で混在し、噛むごとに味が変化した。米は少し硬さが残っていて、リュナ好みだ。口の中で何度も楽しめる味は、高らかなトランペットの音色に聴こえた。

「亡くなったのは、私の姉だった」

 ソレッラはそう切り出した。リュナが尋ねたわけではない。彼女のほうが話したがっている。

「みんな、姉が自分で飛び降りたと思っている。だけど、私はそうは思わない」

 リュナは黙って彼女の話を聞く。リュナが気になっているのは、話の内容よりも、なぜ見ず知らずの人間にそんな話を聞かせるのか、ということだ。

「姉はそんなことをする人間じゃない。まったく悩みがなかったとは言わないけど」

「それで?」

 ソレッラは、まるでリュナがそこにいることに初めて気づいたというように、不思議そうに彼を見た。

「残念だけど、俺はあなたのお姉さんとは面識がない。一緒に悲しんでほしいというなら、選ぶ相手を間違ってるよ」

 リュナの言葉を受けて、ソレッラの瞳の輝きが変化した。初めは悲しみ、それから静かな怒り、そして動きへと。

「リュナ。あなた、なんだか鼻が利きそうじゃない?」

「俺は犬じゃないよ」

「ホントに?」

 からかわれたようだが、リュナはべつになんとも思わない。

「私は、誰かが時計台から姉を突き落としたと考えてる。姉を騙して、あそこまでおびき寄せて、それで」

「逞しい想像力だ」

「黙ってて! 私は絶対に姉を殺した犯人を突き止める。それが――」

「自己満足だ」

「えっ?」

「犯人を突き止めることが、犯人に罪を認めさせることが、お姉さんのためになると思ってる? そんなわけはない。きみのお姉さんはもういない。死んだんだ」

 リュナは冷酷な現実をソレッラに突きつけた。

 ソレッラは放心したような顔になる。

「それにきっとその行動は、きみのためにもならない」

「……どうして?」

「お姉さんの死の原因を追究することが、きみの幸せに繋がるとは思えない」

「でも、このままじゃ私、動き出せない。悲しみから抜け出せない」

 そこに関しては、リュナも口を挿めなかった。

「みんな、私の話を聞いてくれない。初めこそ悲しんだけど、少しずつ、姉の死を無かったことにしようとしてる。でも、私にはできない」

「お姉さんのことが好きだったんだ」

 リュナがそう言うと、ソレッラは少しだけ顔を俯かせた。

「本当言うと、姉とはあまり仲は良くなかった。だけどやっぱり、私にとって世界に一人だけの姉なの。リュナだって、家族を亡くしたくはないでしょう? そんなの悲しいでしょう?」

「そうかもしれないね。だけど、俺に家族はいない」

 そこに寂しさはない。あるのは事実だけだ。

 この世界に神などいない。人の願いを聞き入れる者などいない。

 現実を受け入れる。人にできることは、それだけだ。

「ピトス」とは、人の願いを叶える代物。

 もし本当にあるなら、見てみたい。

 自分だったらどんな願いを乞う?

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