幕間
追憶の少女 1
これは今まで語られてきた物語より、十年ほど時を遡った出来事だ。
リュナは追手に追われていた。強奪を行った他の少年たちと一緒に、通りを駆け抜けていた。
横道が現われるごとに一人、また一人と、違う方向へ逃げ出す。今までの経験からして、必ず一人は捕まる。残念だが、捕まった人間のことは忘れるしかない。二度とこの場所へは戻ってこない。リュナは捕まったことがないのでわからないが、今よりもさらに辛い生き方を強いられることになるだろう。もしかすると生きることさえ許されないかもしれない。
リュナは集団行動が好きではない。他人に依存せず、一人で行動することを好む。しかし鼻が利き危険を察知する能力に長けたリュナは、他の少年たちからよく協力を仰がれた。
前を走っている二人の少年が真っ直ぐ進んだので、リュナは目についた脇道に入った。薄汚れた暗い裏通り。
バケツのような形の大きなゴミ箱の横に、小さな少女が座っていた。膝を折り、その膝を両手で抱え込むようにして座っている。着ているワンピースは元の色が何色かわからないほどに色褪せ、ボロボロだ。
この辺りではよく見る光景。リュナは無視して少女の前を通り過ぎようとした。
その時顔を上げた少女と目が合った。
リュナは周囲の時が止まったような気がした。
感情を無くしたようなその顔。小さな輪郭に不釣り合いな大きな瞳が、リュナを捉えている。そこには一切の意思を感じられない。まるで人形のように。年端もいかない少女は、まだ人生の初期にとても大切なものを落とし無くしてしまった。
リュナは磁力が発生したかのように目の前の少女に引きつけられた。テーブルの端から落ちたグラスが今にも床に衝突しようとする瞬間を見ているような。少女は今にも壊れてしまいそうだった。
気づけばリュナは少女に自分の右手を差し出していた。傷だらけの、土埃に塗れた汚い手だ。
少女は真っ直ぐにリュナを見つめる。その彼女の瞳がふるふると揺れたような気がした。
「行こう」
少女は手を伸ばし、リュナの手を掴んだ。冷たい、小さな手だ。強く握ったら割れてしまいそう。
「いたぞ!」
裏通りの入り口から怒号が響いた。
リュナは少女の手を引いて起こし、傍にあったゴミ箱を横にして追手のほうに蹴り飛ばした。
リュナと少女は走った。裏通りを右に折れ、左に折れ、走り続けた。
すぐ後ろを走る少女の息遣いが聴こえてくる。彼女は人形じゃなかった。生きている。
握ったこの手は、離さない。絶対に。リュナはなぜかそう、決心した。
リュナと少女は、リュナが寝泊まりしている場所にやってきた。ホテルのスイートルームと呼ぶにはいささか荒んだ、廃墟の一角だ。
協力して強奪を行った少年たちと合流し、分け前を分け合う手筈になっている。リュナは少女をそこに残し、向かおうとした。
しかし視線を感じ、振り返る。少女が心細そうな瞳をリュナに向けている。
リュナは思い直し、少女の横に座った。
少女は、リュナよりも一回り小さい。七歳ぐらいだろうか? 亜麻色の長い髪はどれだけ洗われていないのだろう、ごわごわで汚れている。少女の頬も黒く汚れている。
「きみの名前は?」
リュナは訊いた。少女はリュナに目を向ける。答えはない。かわりに、小さく首を横に振った。
「名前がわからない? それとも……」
少女から悲しみが伝わってくる。藍色の、寂しげな。
少女はおそらく、この辺りにいる少年たちやリュナと同じように、棄てられた子だ。家を無くし、家族を無くし、行き場を無くした。
少女は一度も声を発さない。発さないのか、発することができないのか。少女は一体どれだけの心の傷を受けてきたのだろう?
リュナは少女の小さな手を軽く握った。少女は一度手を見た後、またリュナの顔を見た。少し不思議そうな表情。
リュナは少女を連れて、外に出た。道は舗装もされず、辺りには今にも崩れそうな建物が散らばっている場所。
日は暮れていて、夜空には星々が広がっている。この場所では、空だけが唯一美しい。近くに光がないぶん星の輝きがよく見える。
「俺の名前はリュナ。月という意味だよ」
夜空を見上げながら、リュナは言った。紺色のキャンバスに、黄色く輝く三日月を見つける。
それは、親につけられた名前ではなかった。
だから、
地上に視線を戻したリュナは、建物の外壁の隅に咲いた、小さな白い花を見つけた。か弱く、けれど美しい、花。
「きみの名前は、フルール。可憐な、花だ」
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