泣き止まぬ空
「あなたに、お客さんが来ているわ」
昼間、フィリオの部屋で療養させてもらっていると、マーテルがそう声をかけてきた。
リュナは玄関に向かい、外に出る。
そこにリブロが立っていた。リュナの恩師。
「やあリュナ。元気……ではなさそうだね、あまり」
リブロの穏やかな微笑み。優しい匂い。
外は雨が降っているので、中に入ってもらった。マーテルに断り、フィリオの部屋へ案内した。
「報告は聞いたよ。いろいろ大変だったそうだね」
ベッドの端に腰かけているリュナにリブロが言った。
リブロは立ったままだったが、何かが気になったのか、一度ハンガーラックの上の黒い帽子を手に取った。顔の近くに持ってきてじっと眺める。それから帽子をハンガーラックに戻した。
「リュナ。きみはしばらく休んだほうがいい」
リュナは何か言葉を返そうとしたが、その前にリブロが近づいてきて包帯の巻かれたリュナの右手に触れた。リブロはそこに真剣な眼差しを向ける。
「負担をかけてすまないね」
「いえ」
こうやって本当に彼の身を案じてくれる人間は、リブロぐらいのものだ。リュナはそれを少しむず痒く感じた。慣れていない感覚。
リブロがリュナの右手から手を離し、背を向けた。ゆっくり歩きながら、フィリオの部屋の様子を眺めている。
「先生。一つ訊いてもいいですか?」
リブロがリュナのほうを振り返る。リュナはリブロのことを先生と呼んでいた。実際リュナはリブロからいろいろなことを教わった。リュナは教育を受けたことがなかったから。今本を読むことができるのもリブロのおかげだ。
「一つとは言わず、いくらでもどうぞ」
「ピトスとは、何ですか?」
リブロはリュナの質問の意味を咀嚼し、考えに耽る。
また部屋の中をゆっくり歩き出した。
「ピトスは、人の願いが形になったもの。開けてはならないものだ」
「開けてはならない? それは初めて聞きました」
リブロはリュナに目を向ける。
「人の願いは、純粋な明るいものとは限らない。それはきみにもわかるだろう?」
「はい」
「人の欲望は深く、際限がない」
「だけど、それじゃあなぜ、『フリーデン』はピトスを探しているんですか?」
リブロは少年のように無邪気に笑った。
「一度見てみたいからだよ。という、答えでは駄目かな?」
そう言われては、リュナは応えようがなかった。
「好奇心。探求心。そういったものに近い。少なくとも、僕はね。上の連中がどう考えているかは僕にもわからない」
「そうですか」
リブロは元々学者だった人物だ。それを考えれば、その動機もわからなくはない。
リブロは楽しそうに笑って、リュナを見た。
「実は、いいお知らせがある。きみに手紙を預かってきたんだ」
リブロが便箋の入った封筒を差し出してきた。
「手紙? 俺に?」
「残念だけど、僕からのものではないよ」
リブロはさっきからずっと楽しそうだ。リュナは若干、弄ばれているような気がした。
リュナは封筒を裏返し、宛名の書かれた面を上にした。
その名前を見て、リュナは衝撃を受けた。
「一度、会いに行ったらどうだい? 仕事のことは気にしなくていいよ」
別れ際、リブロはリュナにハグをし、去っていった。
リュナは支度を終え、フィリオの部屋をあとにする。いろいろお世話になった部屋だが、これで本当に見納めだろう。
家の玄関で、マーテルと向き合う。
「行ってしまうのね」
「はい。お世話になりました」
マーテルが泣きそうな顔になる。彼女の涙は、もう見たくない。
リュナは彼女に一歩近づく。そこで待っていると、マーテルがリュナに抱きついてきた。
マーテルのすすり泣く声。リュナは彼女の背中に手を回した。とても頼りない、心細さの伝わってくる背中だった。
マーテルに別れを告げ、家を出ると、前の通りにマリードが立っていた。
「お別れは済んだか?」
「はい」
「そうか」
マリードはリュナと並んで歩き出した。
雨の降り続く、レーゲンの村。雨に濡れる、寂しげな風景。
「マーテルだけじゃない。村の人間はみんな、悲しんでいる」
マリードが言う。
「だけど、それが本来の姿なんだ」
村の入り口まで来た。石造りの小さな橋が見える。
「怪物に潰されたウヴリの茶畑。あの場所に、亡くなった村人たちの墓を建てるつもりだ」
リュナはマリードを振り返った。マリードは少し、笑っている。
「まとめてじゃなくて。一人一人にね」
マリードは、誠実な人間だ。きっとジナは、マリードのそんなところに惚れ込んだのだろう。生涯をともに過ごす相手として。
「ジナさんとの思い出は、守られましたか?」
「ああ。これからも、大切にする」
リュナは別れを告げ、歩き出した。
「きみの旅の幸運を祈る」
雨音に紛れたマリードの声が響いてきた。
リュナは橋を渡り、真っ直ぐ道を歩いていたが、ふと思い立って横道に逸れた。
平原の丘を上がっていく。
頭の上のエルピスはこの道草に文句を垂れることはなかった。
丘の上、死者たちの名が刻まれた墓石の前にリュナは立った。
リュナがいる間、この村の雨が降り止むことはなかった。悲しみは終わらない。
リュナは顔を上げ、天を見上げる。
そこには無慈悲な灰色の空が広がり、涙を流し続けていた。
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