悲哀の滴

 闇。

 闇。

 闇。

 どこまで進んでも。

 いくら手を伸ばしても。

 終わることのない、暗黒の深淵。

 他に誰もいない。

 閉じ込められた闇の中で、ただ独り。

 色の無い、匂いの無い、音の無い、

 無が広がる。

 空虚な牢獄。

 遠い、遠い、闇の先。

 そこに一筋の光が見えた。

 か細く、心許ない、温かな光。

 光に向かい、手を伸ばす。

 そこに悲しみが待っていても。

 希望が無くても。

 外へ出たかった。

 世界に、踏み出したかった。

 さよならを告げる。

 あのころの自分に。

 リュナは目を覚ました。

 薄暗い部屋。屋根を叩く雨音が響いている。

 リュナはベッドの上にいるようだった。額に何かがのっている。

 ドアが開く音がした。誰かが中に入ってきて、明かりを点けた。

 スリッパを擦る足音が近づいてくる。人物の顔が仰向けに寝ているリュナの視界に入った。

「あっ」

 リュナの顔を見て、マーテルが声を上げた。

 驚き、それから安心した表情。しかしそれはすぐに眉をひそめた悲しげな表情に変わった。

「起きたのね。よかった」

 どうやらここは、フィリオの部屋のようだった。もうここへは来ないと思ったのに。

 マーテルがリュナの額にあてられたタオルを交換した。熱でも出たのだろうか?

「大丈夫? 気分は?」マーテルが訊く。

「ああ、うん。ありがとう」

 マーテルの優しい表情。だけどどこか、後ろ髪を引かれるような顔。

「あの。エルピスは?」

「エルピス?」

「あ、いや」

 リュナは木のような形のハンガーラックの上に目をやった。そのてっぺんに黒い帽子がかけられている。

「まだ寝てたほうがいいわ」

 リュナを見つめるマーテル。その彼女の顔が、泣きそうになっていく。何かに耐え切れなくなったマーテルは、顔を逸らせて部屋から出ていった。

 雨の音。穏やかな静けさ。

 リュナは自分の右腕を見た。肘の辺りまで包帯が巻かれている。

 自分はあの戦いで力尽き、倒れてしまったようだ。誰がここまで運んできてくれたのだろう?

 リュナはベッドに横になりながら、ハンガーラックの上の帽子を見つめた。

「エルピス。聞こえてるかい?」

 数秒後、黒い帽子から邪悪そうな赤い目が出現した。赤い目はしばらくキョロキョロ動いた後、リュナを向いた。

「俺が寝ている間、きみはそこでずっと見守っていてくれたのか?」

「……フン!」

 エルピスは気に入らないというようにそっぽを向いた。まったく、捻くれた奴だ。

 リュナは怪物との戦いの最後を思い出す。砕かれたユーベルから、黒い炎が発生したはずだ。

「ユーベルはどうなった?」

「消えたさ。跡形もなく、な」

「炎は?」

「……」

「砕かれたユーベルから炎が出てきただろ?」

「……お前はまだ、寝ていろ」

 エルピスの目と口が帽子の中に引っ込んだ。それ以上喋りたくないらしい。

 リュナの記憶の中に、炎を遮るようにして立つエルピスの姿があった。リュナはその光景を覚えている。

 あの後、何が起きたのだろう?

 それから数十分が経った。

 部屋のドアが外からノックされた。

 再びウトウトしかけていたリュナは、現実に目を戻す。

 ドアが開き、誰かが入ってきた。マーテルの時とは匂いが違う。

「目が覚めたみたいだな」

 マリードだった。顔色が良くないし、顔に貼られた絆創膏や包帯が痛々しい。

「よかった。無事だったんですね」

「まあな。見事に気を失っていたが」

「安静にしていたほうが良いのでは? 俺よりも調子が悪そうだ」

「きみに話すべきことがあるからな。無理を承知でやってきた」

 マリードは机の前にある椅子に座った。体はリュナのいるベッドのほうを向いて。

 マリードは頭の中で話す内容を整理するように、思案を巡らしている。リュナは待った。やがてマリードが話し始めた。

「パテルさんが、死んだ状態で見つかった」

「えっ?」

 リュナは珍しく驚きの声を漏らした。

「森の中にある、池のすぐ傍だ。状態からして、あの怪物にやられたらしい」

「……そう、ですか。でもなんでそんな場所に」

「わからない。それから、教会にあった石が無くなっていた。牧師の話によると、パテルさんが無理やり持ち出したらしい」

 リュナはその話を聞いて、なんとなく事の顛末が想像できた。

「今、この村は、混乱している。あんな化け物が現われたこともそうだが……」

「幻から目が覚めたのですね?」

 リュナは怪物がウヴリの茶畑を破壊した光景を思い出した。マリードの沈黙を、リュナは肯定と受け取る。

 マリードは顔を上げ、遠くを見つめるような目をした。

「この村はようやく、本来の姿に戻ったのさ。深い傷跡も一緒にね」

 雨音が鳴る。雨はまだ降り続いている。

「リュナ。ありがとう。きみのおかげで、この村はまだ生きている。もしかすると、立ち直れないかもしれない。だけど、まだ生きているんだ」

 マリードが視線を余所に向けた。

「それから、エルピス。きみにもお礼を言っておこう」

 黒い帽子から赤い目が浮かび、睨みつけるようにマリードを見た。

「ありがとう」

「……フン!」

 エルピスの目が引っ込んだ。いつも偉そうにしているくせに、褒められ慣れていないのか。可愛い奴め。

 それからもう少し話をして、マリードは部屋を出ていった。

 エルピスは隠れて出てこない。

 リュナはもう一度眠ることにした。


 夜になったようだ。空はずっと雨雲に覆われているのでわかりにくいが、昼間よりも明らかに暗い。

 体は全体的にだるいが、とくに異常は見られない。右腕の包帯は取りたくなかったが。リュナはベッドから起き上がった。

 リュナがここに運ばれて眠っている間、マーテルが看病してくれていたらしい。彼女が起きているなら、お礼を言いに行こう。

 リュナはフィリオの部屋から出た。リビングの明かりが点いているようなので、そちらに向かった。

 ドアを開けようとしたところで、リュナは動きを止めた。中から声が聞こえる。

 マーテルの声。すすり泣いているような。

 リュナは彼女の身に起こったことを想像する。そして、ドアを開けた。

 マーテルはソファに座り、両手に顔を埋めて泣いている。リュナが来たことにはまだ気づいていない。

 リュナはゆっくりとマーテルに近づいていく。

 マーテルが気づき、涙が流れる顔でリュナを見た。

「こんばんは」

 リュナの言葉が聞こえなかったわけではないと思うが、マーテルはただ悲しそうにリュナを見つめている。

「隣、座ってもいいかな?」

 リュナはマーテルが座っているソファの空いているスペースを指差した。

 マーテルは少し考えてから、こくんと頷いた。

 リュナはマーテルの横に、腰を下ろす。

 マーテルから若干の緊張が伝わってきた。それはすなわち、リュナがフィリオではないということを理解している。息子ではない赤の他人が隣にいるのだ。

「パテルさんのことは聞きました」

 リュナが言うと、泣いていた名残りか、マーテルの体が震えた。

「あなたは独りになってしまったのですね」

 マーテルはリュナの言葉を飲み込み、瞳を潤ませる。

「泣いてもいいんですよ」

 マーテルは少し目を見開いた。そのままリュナを見つめていたが、やがて彼の胸に顔を預けてきた。

 マーテルは泣いた。どうしようもないほどに。

 リュナはそんな彼女をただ見守ることしかできなかった。

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