残滓の炎

 怪物の胸の辺りから瘴気のような黒い靄が生み出されている。体中に浮き上がる顔が狂ったような叫びを上げ、悪夢のような様相を呈している。

「フィリオ!」

 マーテルが近づいてきた。

 リュナはマーテルに向けて言った。

「いいかい? あれが、この村の人間が犯した罪だ。現実から排除され安らかな眠りに就けなかった者たちのなれの果てだ。あれの醜さを、おぞましさを、よく見ておくんだ。フィリオは、あそこにいる」

 リュナの言葉に衝撃を受けたマーテルは、泣きそうな顔を怪物に向けた。

「さあ、下がって。マリードさんをお願い」

 リュナはマーテルを庇うように前に出た。

 眼球のない怪物は、憎らしげにリュナを見下ろす。

 決着をつけよう。死者は土に還すべき。

 リュナは右手の手袋を剥ぎ取った。中指に佇む漆黒の宝石。

 呪われた力を解放する。中指の指輪は怪物に呼応するように闇を増す。まるで意識を持っているかのように。

「沈め」

 リュナは右腕を怪物の足元に向けた。指から腕にかけて燃えるような熱が伝播する。

 怪物が接している地面が焦げ茶色の沼に変化した。怪物はねっとりしたとろみのある沼に足を取られ、動きを失う。

 怪物がリュナを捕まえようとするように長い腕を伸ばしてきた。リュナはそれを横に動いてかわし、怪物から距離を取った。

 リュナはもう一度、周囲の雨を結集させる。細長く、鋭い形に。

「凍てつけ」

 集まった水の塊が、ピキピキと音を立てて凍っていく。鋭く尖った氷の槍。

 この一撃に賭ける。これ以上は持たない。防がれたら、終わりだ。

 リュナは怪物に向かって駆け出した。氷の槍は宙に浮かせたまま、自らが囮となって注意を引かせる。

 沼に足が浸かり身動きの取れない怪物は、近づいてきたリュナに片腕を振り下ろした。リュナはそれを回り込むようにして避けた。脳を揺らすほどの衝撃が地面から伝わったが、リュナは怯まず怪物に向かっていく。

 怪物の死の臭いを放つ体。浮かび上がる顔たちが憎しみの表情をリュナに向ける。リュナは化け物の目前まで迫った。

 怪物が今度は両腕を頭上に掲げた。血の涙を流す眼球のない顔。体中の死者たちが怒り狂った叫びを上げた。その声だけで体が押し潰されそうだ。それでもリュナの心は折れない。ここで悲しみに終止符を打つ。

「貫け」

 がら空きになった怪物の胸。憎しみの源。そこへ一直線に飛んできた氷の槍が突き刺さった。

 怪物が悲鳴のような雄叫びを上げた。

 眠れ。安らかに。

 力を使い果たしたリュナはがっくりと膝をつき、それから前のめりに倒れた。倒れた時の衝撃で、被っていた黒い帽子が頭から外れた。

 リュナは倒れたまま、閉じかかった目で怪物の様子を眺める。呻き苦しむ死者の集合体。

 パリッ、と硬いものが砕けた音が鳴った。怪物の胸から、黒い欠片がこぼれ落ちる。

 核を失った怪物が、浄化されていく。実体を失った巨大な体が煙のように霧散し、涙を流す空へ消えていった。

 バラバラになったユーベルの欠片が地面に散らばる。

 これで終わりだと思った。

 だが、砕かれたユーベルからそれが浮かび上がる。

 漆黒の、闇の炎。

 炎は揺らめき、大きさを増していく。

 降り注ぐ雨すらも燃料とするように、闇が広がっていく。

 欲望を肥やす、邪な火炎。

 移りゆく闇は、リュナをも飲み込もうとする。

 世界が絶望に染まっていく。

 しかしリュナは見た。途切れかけた意識の中で。

 リュナを守るようにして立つ、

 黒い帽子の姿を。

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