花と風の都
春風の音色
窓から見える景色は絶え間なく移りゆく。時の移ろいというものを物語っているかのように。過去には戻れない。時はただ前へ流れ続ける。
列車のコンパートメント席にリュナはいた。隣のシートにはお馴染みの黒い帽子が置かれている。この黒いやつは、ただの帽子ではない。いろいろと。奇妙な縁だ。帽子とこんなに縁が深い人間というのもなかなかいないだろう。
「それで」
この黒い帽子には、目と口がある。そういうデザインというわけではなく、その目が実際に物を見て、口を使って言葉を話す。今実際に話しているところだ。
「その、ずっと前に別れたきり一度も会っていなかった女から、手紙が届いたというわけか」
「ああ」リュナは答える。
「それで今、その女がいる場所に向かっているわけか」
「ああ」
「オレはその感動の再会を微笑ましく見守っていればいいってわけだな?」
「いや、俺は彼女には会わないよ」
「はあ? じゃあなんでそいつんとこに向かってんだ?」
リュナはすぐには答えず、自分の中で思いと言葉を整理する。しかしそれは上手く言葉にできなかった。よって何も言葉を発さない。かわりにリュナは読書を始めた。
「おい、無視かよ!?」
まったく、喧しい帽子だ。
エルピスの追及を無視して読書をしていると、通路からコツコツと足音が響いてきた。誰かが近づいてくる。嗅いだことのある匂いだ。
「ここ、空いてる?」
見覚えのある女が、リュナの正面のシートを指して尋ねてきた。
なんだろう、同じようなことが前にもあった気がする。デジャヴだろうか?
「そこは、空いてない。普通の人には目に見えない妖精が座ってる」
「そう」
女はリュナの言葉を無視して堂々とシートに座った。
クロワッサンのようにクルクルのブラウンヘアー。ルビーのように赤い瞳。子供っぽさと大人っぽさと併せ持った小顔。名前は確か……。
「私の名前、覚えてる?」女は鈴のような軽やかな響きの声で訊く。
「どうかな?」
リュナは覚えていたが、あえてはぐらかした。向こうのペースに乗りたくない。
「レディの名前を忘れるなんて、失礼だと思わない?」
「断られたのに席に座ってくる図々しい人間のほうが失礼だと思うけど?」
「エルピス。今日はあなた隠れたりしないのね」
リュナは傍らのエルピスを見た。ヴァンの言うようにエルピスの目と口が出たままだ。面白くないというような表情でヴァンを眺めているが、何も言わない。先ほどまであんなに喧しかったのに。
ヴァンとエルピスはどうやら知り合いらしい。一体どういう関係だろう? そもそもエルピスに知り合いがいたということに驚いた。
目の前に座っている女、ヴァンは、ただの一般人ではない。そのことは以前遭遇した時に知った。ただそれ以上のことは何も知らない。エルピスについてだって、これまで一緒に旅をしてきたけど、ほとんど何も知らないと言っていい。そう、世界は謎で溢れている。
「何か用?」
リュナはヴァンに向かって言った。何かを考えていた様子のヴァンがリュナを見る。
「あなた、人から冷たいって言われない?」
「さあ? そもそも人とあまり関わらないから。用がないから他へ行ってほしい」
ヴァンの目が薄目になって横に平たくなった。無言の圧力が襲ってくる。怒らせると厄介な相手に思える。エルピスはあまり関わり合いになりたくないといった様子だ。そんな彼は珍しい。
「私はあなたたちの目的地と同じ場所に向かってるの。だからここに座っていたって何の問題もないでしょう?」
「どうして俺たちが向かってる場所を知ってる?」
ただ単に鎌をかけただけかもしれない。
「女の勘ってやつ?」
「じゃあ、言ってみて。何ていう場所だ?」
「花の都、フィオーレ」
まさかの当たりだった。それも鎌かけかもしれないが、リュナは口を閉ざさざる得ない。かわりに読書を再開した。
「こら、無視すんな!」
喧しい相手がもう一人増えてしまった。やれやれ。
リュナがヴァンとの間にバリケードを張るように本を持ち上げて読んでいると、傍らのエルピスが口を開いた。
「おい、ヴァン。お前、やけにリュナに構ってくるな」
「そうかしら? たまたま空いてる席を見つけただけだけど?」
「何か、視たのか?」
ヴァンは押し黙った。リュナは読書するふりをして、二人の話に耳を傾けている。
ヴァンが再び口を開く。
「エルピス。あなたもその子と一緒にいるのは、何か訳があるんでしょう?」
「ただの成り行き、腐れ縁ってやつだ」
「その子のことが、可愛いんじゃない?」
「はあ!? ショタコンのお前に言われたかない」
「誰がショタコンだ!」
騒がしくてまったく本が読めない。頼むから二人ともどこかへ行ってほしい。
フルールは、家の三階にあるテラスにいた。
花の植えられた植木。白い丸テーブルと椅子。フルールはその間を通ってテラスの柵に近づいた。
一陣の風が吹き、桃色の花びらが飛んできた。小さな花びらたちが宙を舞い、空間に鮮やかな彩りを添える。
フルールは柵に軽く手を置き、深呼吸をした。
風に乗ってやってきたほんのり甘い香り。風が頬を撫で、亜麻色の髪をなびかせる。
フルールは右手を後頭部に動かし、後ろ髪に結ばれた赤いリボンに触れた。それは彼女が最も大切にしているもの。彼女の希望の象徴。
この風は、あの人に届くだろうか? 想いを運び、届けてくれるだろうか?
伝えられなかった、この想いを。
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