追憶の少女 3
夜、廃墟の一角である彼らのねぐら。
壁に背を預けて座っているリュナの傍らでは、横になったフルールが寝息を立てている。薄っぺらいボロボロのタオルケットをかけて。
リュナはフルールの亜麻色の髪を彼女を起こさないように優しく撫でた。フルールは寝ている時、よく悪夢にうなされる。彼女は言葉を発することができないので、親にどのような仕打ちを受けてきたのかリュナにはわからないが、毎晩のようにうなされるその姿を見ていれば彼女が体験した残酷な過去を想像することは難しくない。
リュナは昼間に会った男、ウェルスのことを考える。彼からネガティブな臭いは感じられず、誠実で穏やかな印象を受けた。リュナをドブネズミのように扱ったリュナの両親とは全然違う。しかしそれでも、大人の人間は信用できないという考えがどこかに巣食っていて、それを拭い去ることはできない。
もし。もしフルールがウェルスのところへ行けば、こんなゴツゴツの硬い床ではなく、ふかふかの温かいベッドが待っているだろう。三食きっちり美味しい料理を食べることができるだろう。お洒落な服で着飾って、女の子らしい格好ができるだろう。いずれ自分のやりたいことを見つけ、人生に希望を見い出すことができるようになるだろう。
リュナはフルールの幸せを望んでいる。そして自分では、彼女を幸せにすることはできない。自分と一緒にいても不幸になるだけだ。
明日もう一度ウェルスに会い、話をする。リュナはそのことを決めた。
その時リュナの右手に何かが触れた。見ると、目を開けたフルールがリュナの手を握っていた。何かを訴えかけるように、リュナを見つめている。
しかし、リュナは彼女から目を逸らした。自分は彼女のその眼差しに応えることはできない。フルールが悲しげな瞳を向けていることはわかる。それでも、リュナは彼女を見ることができなかった。
翌日の昼間、リュナたちが昨日の公園に行くと、ウェルスが待っていた。おそらくリュナたちが来ることはないと思っていたのだろう、二人を見た瞬間ウェルスの表情が柔らかく綻んだ。
リュナはウェルスに話をつけた。絶対にフルールを大切にする、という条件をつけさせて。ウェルスは驚きと喜びの表情を浮かべ、約束の場面では真剣な表情でリュナたちに向き合った。
「もちろん、きみも一緒に」
ウェルスがリュナを見て言う。しかしリュナは否定した。
「俺は無理だ。誰のところにも行けない。そういう性質なんだ。誰かと一緒にいても、お互いに傷つくだけ。それに俺のこの手はもう……」
汚れすぎている。この手で幸せを掴むことはもうできない。
ウェルスは同情の顔をリュナに向けてくる。優しい男だ。きっと、フルールを大切にしてくれる。本当の家族のように。
リュナの後ろからフルールが腕を掴んできた。振り返ると、フルールはリュナを見つめ、首を小さく左右に振った。なんて頼りない表情だろう。
リュナはフルールの肩に手を置き、言葉は発さなかった。この気持ちを口に出すと、嘘のように聞こえると思ったのだ。それとも、自分は泣いてしまうかもしれないと思ったのかもしれない。
後日ウェルスがフルールを迎えることになる期日を決めた。
ウェルスが去った後の公園は、時が止まったように静かだった。
フルールがウェルスのもとに行くことになる前日の夜。リュナとフルールはいつものように二人で過ごした。だけどこうやって二人でいるのは、今日で最後だ。
建物の前の半ば崩れた石垣の上に二人で座った。雲はほとんどなく、星の輝く夜空がよく見える。夜風が涼しくて気持ち良い。
「きみは幸せになるべき人だ」
リュナはまるで独り言のように言った。隣に座るフルールがリュナに顔を向ける。
「これからの人生で、大切なものを見つけてほしい」
フルールは悲しそうな顔をする。
リュナは思わず苦笑いして、フルールのほうを向いた。
「そんな顔しないでよ。俺が悪者みたいだ」
フルールはどうしたらいいかわからないというように戸惑っている。
「俺はきみに出会えたことに感謝してる。この世界は醜いだけじゃなくて、美しいものもあるんだって、きみは教えてくれた。きみは俺に希望を与えてくれたんだ」
フルールはリュナの言葉にじっと聞き入っている。
「あのウェルスって人。あの人ならきっと、大丈夫。きみを守ってくれる。大切にしてくれる。そんな匂いがした」
フルールがリュナの手を取った。彼女の気持ちが伝わってくる。
「俺のことは忘れて、新しい人生を生きるんだ。そしていつか、きみが持つその優しさを、誰かに分け与えてあげてほしい」
フルールの瞳が潤んでいるように見えるのは、気のせいだろう。彼女は涙を流すことすらできなくなってしまったのだから。
「きっといつか、きみは笑顔を取り戻せるよ。その笑顔を大切にしてくれる人に出会えるよ。大丈夫、自分を信じて。この世界は、残酷だけど、でも、それだけじゃない」
リュナはいつの間にか自分の顔からポタポタと涙が滴っていることに気づいた。リュナはそのことに驚く。どうして泣いているのか、わからない。悲しくなんか、ないはずなのに。
フルールの泣きそうな顔を見て、また涙が溢れてくる。どうしようもないほどに、感情が溢れてくる。
リュナはフルールの今にも崩れてしまいそうな華奢な体を抱きしめた。
「さようなら。きみが幸せに生きられることを、毎日この夜空に願うよ」
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