魅惑の瞳

 そこは色彩と芳香に溢れた美しい場所だった。街の至るところに花が植えられ、赤、黄、薄紫に白、桃色の花弁が景観に鮮やかな彩りを与えている。

 花の都、フィオーレ。

 海沿いの遊歩道にはずらっと花壇が並び、岸の近くにたくさんのボートが浮かんでいる。近くには宮殿のような立派な建物もあった。

 道行く人もみなどこか生き生きとしていて、柔和な品がある。

 時折吹きつける優しい風は、心地良い涼しさと芳しい花の香りを運んでくれた。

「どう? 良いところでしょう?」

 まるで自分が紹介して案内したような口ぶりで、ヴァンが言ってきた。

「美しい街だ」

 リュナは素直に答えた。

「でしょ、でしょ?」

「だけど一ついいかい? どうしてきみは俺についてくるんだ?」

 到着して列車から降り、駅を出て街に繰り出してからも、ヴァンは同行者であるかのようにさも平然とリュナと並んで歩いた。

「こんな綺麗な場所で、こんな素敵な女性と一緒にいられるなんて、この上ない幸福だと思わない?」

「とくに思わない」

「……チッ、このガキ」

 なにやら毒々しい呟きが小さく聞こえたような気もしたが、気のせいということにしておこう。

 リュナはヴァンを放っておいてスタスタと歩いていく。

「ちょっと待ってよ」

「しつこいな。まだ何かあるの?」

 リュナは不機嫌さを隠さずに振り返る。

「これから私があなたと、デートしてあげる」

 ヴァンが自信に満ち溢れた笑みを浮かべながら言った。あなたの望みを叶えてあげる、といったような口ぶりである。

 リュナは数秒ヴァンを眺めた後、言った。

「間に合ってます」

 リュナは再び歩き出す。

「こら待て!」

 ヴァンは怒声を発しながら追いかけてくる。

 リュナの頭の上のエルピスが大きな溜め息を吐いた。


 白く清潔な部屋。部屋の隅に置かれた観葉植物。豪華な家具に、壁に飾られた高級そうな絵画。

 フルールは両親であるウェルスとリシェスとともに食卓を囲んでいた。愛情をもって子を育む人物を親とするなら、この二人は紛れもなくフルールの父と母だ。

 ウェルスはとても穏やかな人物で、蓄えた少量の口髭はちょっぴりお茶目だ。フルールは彼に怒られた記憶が一切ない。彼はいつもニコニコと笑顔で優しく接してくれる。

 リシェスはウェルスとは少し違い、ちょっとせっかちで怒りっぽいところがある。だけど根はとても温かい人物で、美しさと利発さを兼ね備えたフルールの憧れの女性だ。フルールが助けを求めたい時、いつだって快く望んで応えてくれる。

 この家の食卓はいつも明るく、楽しさで溢れている。だいたいウェルスが今日あった出来事などを面白可笑しく話し、リシェスがそれについて難癖をつけたりする。一見食い違っているようでとても噛み合った二人。本当に仲が良い。二人はフルールにも話を振ってくれる。筆談でなければイエスかノーでしか答えられないし、笑うこともできないのだが、そんなことお構いなしに二人は接してくれた。本当の家族のように。いや、本当の家族なんだ。

 ウェルスとリシェスの間には、子供ができなかった。フルールは具体的な話を聞いたことがないが、何かしらの機能に問題があるようだ。それでも二人は子供を欲した。その願いは、八年前にフルールを養子として迎え入れることで実現した。

 フルールはこの両親に、ひたすらに感謝の気持ちしかなかった。親に棄てられいつ野垂れ死んでもおかしくなかった自分が、これほどまでに恵まれた家庭に巡り合うことができたのだ。二人には感謝している。

 だけど、それでも、フルールに笑顔が戻ることはなかった。

 フルールはウェルスとリシェスの子供になり、ある程度生活が落ち着いてから、必死に読み書きの勉強をした。それは口で話すことのできない彼女に必要な知識だったが、それだけではない。

 フルールには自分の想いを一番伝えたい人物がいたのだ。

 その人物にいつか自分の想いを届けるために、フルールは毎日勉強した。

 そして夜寝床に入った時に、毎日願った。

 彼にもう一度会い、この想いを直接伝えられることを。


 リュナとヴァンは、海沿いのお洒落なレストランで夕食を摂った。今は料理の皿が下げられ、食後のコーヒーを嗜んでいるところだ。

 リュナは早く一人になって物思いに耽りたかった。だが目の前の女がなぜか頼んでもいないのにくっついてくる。

 料理を食べ終え満足気な表情を浮かべているヴァンは、そっぽを向きながら時折ちらっとリュナに視線を向けた。彼女は標準的な尺度からすると間違いなく美人の部類に入るだろう。しかしリュナは標準的な人間ではない。それはおそらく彼女のほうも同じだったが。

「きみはこの街に何をしに来たの?」

 リュナはそう口にした。拒絶するばかりでは彼女を撒くことはできないと考えたのだ。ここまでくるとさすがに多少彼女に興味を抱いたというのも理由である。

 ヴァンのルビーのように赤い瞳が待ってましたとばかりに輝きを増した。

「あら、気になるの?」

「いや、そんなに」

「そこまで言うなら教えてあげる」

 ヴァンは前のめりになりながら言った。引いて駄目なら押してやる作戦は無駄だったかもしれない。しかし次に出てくる彼女の言葉は予想外のものだった。

「リュナ。あなたを監視するためよ」

 ヴァンの視線がリュナを真っ直ぐに射貫く。

「監視? それは冗談か何か?」

「いいえ。本気も本気、超本気よ」

 彼女は語彙はあまり豊富ではないようだ。

「どうして俺を監視する?」

「もちろん、危険だからよ」

 ヴァンは嘘を吐いているようには見えない。ただ彼女は普段から飄々としていて、その本心を窺い知ることはリュナでもできない。

「ふふ。ちょっと戸惑ってるようね。可愛いところもあるじゃない」

 ヴァンは妖艶に微笑んだ。

 リュナがいろいろと思考を巡らせていると、ヴァンが先を見越したようにこう言った。

「一つ、あなたが私の監視から逃れる術があるわ」

「それは何?」

 リュナが訊くと、ヴァンは微笑みながらリュナの右手を指差した。

「その指輪、私にくれない?」

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