訪れた悪夢

 リュナは今までいろんなものから逃げてきた。貧しさから、追手から、絶望から。そして……。

 常に他人に頼らず、自立してきたはずだ。他人との間に境界を築き、お互いに触れることのないよう。そうやってリュナは自分を守ってきた。それなのに今、彼の心はぐちゃぐちゃだった。他人に踏み散らかされてしまったかのように。

 どうしてここまで心が揺れるのか。どうしてここまで心が痛むのか。

 この街には、来るべきではなかった。忘れるべきだったんだ。

 彼女に謝りたかった。だけど彼女に会うことはできない。

 せめて、手紙を書くか? いや、違う。そうじゃない。一切の関わりを断つべきだ。彼女の人生に自分はいてはいけない。

 もう宿の部屋から一歩も出ない。そして明日になったらすぐに、この街から出ていこう。

 これ以上彼女への想いが募る前に。


 フルールは、遊歩道のベンチに座りながら、がっくりと項垂れていた。

 ずっと会いたかった人が、近くにいた。まるで夢が叶ったようだった。それなのに……。

 どうして彼は逃げたのか? 自分だとわかっていながら、どうして?

 この想いは、どうしたらいい? 両手でも抱え切れないほどのこの想いを。

 あなたがいたから私は生きてこられた。あなたがいたから、絶望の淵で踏みとどまることができた。それなのにどうして一言のお礼もさせてくれないの?

 あなたは優しい。でも、勘違いしている。私が一番必要なのは、あなたなの。どうしてわかってくれない?

 ただ傍にいてくれればいい。それだけでよかった。この願いすら我がままというなら、私は神様なんて信じない。

 フルールは自分の髪を束ねているリボンに触れた。

 これは彼がくれたもの。何より大切な、宝物。この世界に生きていてもいいと思わせてくれた、彼の優しさの象徴。

 フルールは立ち上がった。

 きっとまだ、彼はこの街にいるはずだ。ゴミ箱の中に隠れていたって、探し出してみせる。知らない人の家にだって踏み入ってみせる。絶対に、もう一度。

 風が吹く。空は茜色と紺のコントラスト。風が冷たい。

 男が立っていた。見覚えのある男。男が夕日を背にしていても、誰かがわかった。

 驚愕の後、フルールの体が震え出す。

 男は憎しみのこもった目をフルールに向けていた。


 リュナは宿の部屋のベッドの上で仰向けになって足を組み、繋いだ手を枕と頭の間に入れていた。

 どれだけの時間そうやっていただろう?

 テーブルの上のエルピスは何も話しかけてこない。

 早く時間が経ってほしいのに、時間が経つのがとても遅く感じる。

 どれだけ打ち消そうとしても、フルールの顔が頭から離れない。

 リュナは今この時だけ、物になりたかった。そこにある椅子でもテーブルでも、ドアだっていい。だけど結局は自分も人なのだ。小さなことで思い悩む、か弱き生物。

 コン、コン、と入口のドアが二度ノックされた。

 リュナは今誰とも会いたくなかった。それはいつものことではあるけれど、今はいつも以上に。

 しかし懲りずにもう一度ドアがノックされたので、リュナは起き上がって歩き、ドアを開けた。

 部屋の外には宿の女将が立っていた。

「突然すみません。ちょっと預かりものが」

 女将は便箋のようなものを手に持っている。

「俺に?」

「ええ。この時間になったら渡すようにって」

 リュナはそれを受け取った。女将は一礼をして去っていく。

 部屋のドアを閉め、その場で便箋を開けた。中にメッセージの書かれた紙が入っている。

『BARヴィオレットに来い フルールはそこにいる』

 リュナの感覚があの男の臭いを呼び覚ましていく。

 リュナは便箋を床に放り捨て、ドアを開けた。

「おい、リュナ!」

 部屋の中にエルピスを置き去りにして、リュナは走った。

「待て! 行くな!」

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