空駆けるそよ風
その黒炎は大気すら焼くかのように、物体のない空間にも燃え移っていった。近くに建物のない場所へ避難すれば安全と考えていた人々も、この街に安全な場所などどこにもないと悟った。
ある者は海の中に飛び込んだ。冷たい夜の海を泳ぐのは賭けだが、灼熱に体を蝕まれるよりはましなはずだ。
しかし漆黒の炎はその触手を水の中にも伸ばした。水面を焼き、水中にいる人間をも灰燼に帰した。
花の都に広がる炎は衰えるどこかその勢いを増し続ける。美しかった景観が損なわれ、次々と尊い命が奪い去られた。闇は全てを飲み込み、肥大していく。
両親とはぐれた小さな少年が、炎に囲まれていた。
黒く燃え上がる周囲の建物。通り道であった場所も、とぐろを巻く炎に遮られた。
少年は為す術もなく立ち尽くす。
炎はその小さな命にも腕を伸ばした。
だがその時、一陣の風が舞った。
少年の体がふわりと浮き上がる。
自分がいた場所に雪崩れ込んできた炎を下に見て、少年は宙を移動した。
浮き上がった体が今度は地面のほうに下がっていく。
無事に着地した少年の体を誰かが支えた。
「おっと、ナイス着陸」
大人の女性だった。頭に顔のついた帽子を被っている。
「このまま真っ直ぐ行くのよ。そっちはまだ安全だから」
少年は目がキョロキョロ動いている帽子を不思議に思ったが、言われた通りに道を駆け出した。
少年を見送った後、ヴァンはまだ火の届いていない近くの建物に入った。
そこはどうやら美容院のようだった。明かりを点けたかったが、電気が止まってしまったのか、スイッチを入れても起動しない。外よりもっと暗いが、ヴァンはすらすらと歩き回って探し物をした。
「おい、何してんだ? こんな時に、ねこばばか?」
エルピスが呆れたように言った。
「はあ? 誰がばばあよ、失礼しちゃう」
適当に返しながら、ヴァンは奥へ進んでいく。
そして目当ての物を発見した。それを持って、外に出る。
「何を持ってきたんだ?」
「箒よ。あたりまえでしょう?」
「掃き掃除でも始めるのか?」
「あなた馬鹿なの? そんなわけないでしょ」
「オレは馬鹿じゃない。エルピスだ」
「そうだったわね」
ヴァンは箒を弄ぶようにクルクル回しながら炎が燃え盛っているほうへ歩いていく。
「おい、何してる? 死ぬ気か?」
「何言ってんの? あなたがあの子のところへ連れてけって言ったんじゃない」
「お前は北へ行けって言われたら壁にぶち当たってでも直進するタイプか?」
「馬鹿なの?」
「エルピスだ!」
ヴァンの存在を感じ取ったのか、滾る炎が彼女のほうに勢いよく手を伸ばしてきた。
ヴァンはそれをすんでのところでかわし、箒を横にしてそこに跨った。
「舞え」
箒に乗ったヴァンの体は瞬く間に地上から離れ、火の手の届かない空中に飛び立った。
「ふう、危なかった」
その時突風が吹き、頭の上のエルピスが飛ばされかけた。
「うおっ!」
「ちょっと、ちゃんと掴まってなさいよ。それにしても、高いところからの景色ってやっぱり素敵ね」
「お前、空飛べんのか?」
「だって、私って風の申し子でしょう?」
「知らん」
ヴァンは上空から眼下のフィオーレの街を見下ろした。
闇の炎がまるで八本首の大蛇のように鎌首をもたげている。
それはヴァンがかつて見た未来の光景だった。こうなることはわかっていた。リュナと初めて会ったあの時から。
それにしても、凄まじい闇の力だ。一人の人間の精神がここまでの闇を作り出すなんて。
彼が目にした絶望は、底知れない。
街に広がる炎の一ヶ所が、爆発したように燃え上がった。
ヴァンは油断していた。闇の炎が一直線に伸び、上空にいる彼女に襲いかかってきた。
移動する間もなく、闇の炎に飲み込まれる。
だが炎は彼女の体を覆い尽くす前に、跡形もなく消え去った。
ゴキュゴキュ。
頭の上から咀嚼するような物音。
「プッ!」
エルピスが唾でも吐くように闇の残り香を吐き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます