喜びの歌

 村のメイン通り。左右は似たような造りの住宅がずっと続いている。

 藍鼠色の空から雨粒が降り注ぎ、屋根を、地面を、打つ。家の前に設置されている花壇では、緑の葉が雨粒をはじいている。リュナの頭上では、世界一喧しい帽子が雨粒をはじいている。

「ゴクッ。……うっ、マズッ」

 はじいていると思ったのだが、どうやら帽子は雨を飲み込んでみたようだった。彼(性別を尋ねたことはないが、ひとまずその呼称で呼ぼう)の肥えた舌にはお気に召さなかったようだが。

「ララララララ。ララララララ」

 前方から幼い声が響いてきた。小さい男の子の姿が見える。クルクル踊るように回りながら、こちらに進んできた。

「あ、待ってよククル」

 男の子は何かを追いかけるようにして駆ける。しかし少年の先には何もいない。少なくとも、リュナには認識できない。

「ララララララ。ララララララ」

 少年は歌うような声を発しながら、去っていく。とても楽しげだ。

「何だ? 今の」

 エルピスが疑問を呈したが、もちろん自分に訊かれてもリュナはわからない。奇妙なのは頭の上の帽子だけで充分だ。

 通りを歩いていくが、なかなか人に出会わない。雨だから外に出ないのか、この村の人間は出不精なのか。

「おい。どこでもいいから早く中に入れ。オレ様のせっかくの美フォルムが台無しになる」

 エルピスに煽られたが、他人の家に勝手に入っていくわけにもいかない。それにしても、ずいぶんと美意識の高い帽子だ。

 そのまま歩いていくと、少し空間の開けた広場に出た。四角く囲むようにベンチが四つと、四隅に小さな花壇が四つあるだけだが。

 ベンチの一つに、成人年齢前後の男性が傘も差さずに足を組んで座っていた。ベンチの真ん中ではなく、片側に寄って。どこか誇らしげな表情を浮かべる男性は、時折横を向いて唇をくちばしみたいに突き出している。一体何をしているのだろう? 演劇の練習でもしているのだろうか? この村についていろいろ尋ねてみたいことがあったが、この男性には訊く気が起きなかった。見なかったことにしよう。

「フィリオ?」

 雨音に紛れ、声が響いた。声のしたほうを見ると、そこに中年の女性が立っていた。

 女性はリュナを真っ直ぐに見つめている。驚愕を表した表情は、徐々に喜びのものへ変わっていった。

「フィリオなのね?」

 それは疑問が確信に変わった声だ。

 リュナがどう対応しようか考えあぐねていると、女性がリュナに飛びつき抱きついてきた。

「会いたかった」

 女性は力強くリュナを抱きしめる。今自分の体は雨で濡れているのだが、とリュナは思った。しかしそんなこともお構いなしだ。

 一頻りリュナを抱きしめた後、女性は体を離しうっとりとした顔でリュナを見つめた。

「どこに行っていたの? 心配したんだから」

「そうですか。だけど俺は」

「行きましょう」

 女性はリュナの手を握り、歩き出した。

 ララララララ。ララララララ。

 先ほどの男の子の声がどこかから聴こえてきた。


 女性の名前はマーテルといった。リュナはマーテルに連れられ村の一角にある家の中に入った。

 ずぶ濡れの状態で家に上がるのは気が引ける。第一マーテルは何か勘違いをしている。

 リュナが玄関で立ったままでいると、マーテルが戻ってきてリュナの手を取った。

「何してるの? ほら」

「俺は、フィリオという名前じゃない」

 その言葉を聞くと、マーテルは一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに優しく微笑んだ。リュナの背中に手を回し、上がるように促してくる。仕方ない、一度お邪魔することにしよう。何か話を聞けるかもしれないし、これ以上雨にあたると頭の上の帽子がうるさい。

「パテル。パテル!」

 マーテルが誰かに向けて声を上げている。

 廊下を進み、リビングらしき場所に入った。マーテルに気づくと、一人の中年男性が近づいてきた。

「パテル。フィリオが帰ってきたの」

「なんだって!?」

 パテルと呼ばれた男が、マーテル、次いでリュナのことをまじまじと見た。

「フィリオ!」

 その後のパテルの行動を予期し、リュナは身構えた。案の定、パテルはリュナに抱きついてきた。

 マーテルとパテルからは、優しい匂いがする。リュナを拾って育ててくれたリブロと同じような。そこに嘘の匂いは読み取れない。リュナがフィリオという人物であると信じ込んでいるのだ。

「よく帰ってきてくれた」

 体を離し、リュナを見つめているパテルの目には、うっすら涙が浮かんでいる。それは悲しみの涙ではない。リュナは目の前にいる二人の期待を裏切りたくはなかった。けれど嘘を吐くつもりはない。

「俺の名前はリュナだ。フィリオじゃない」

 実はリュナというのは彼の本当の名前ではなかった。彼の両親はリュナを名前で呼ばなかったので(物として扱ったので)、親につけられた名前は憶えていない。リュナとは、その後出会った人物に与えられた名前である。同じように、リュナは自分の正確な年齢も知らない。ただ、マーテルとパテルがリュナの両親ではないことは確かだ。もちろんリュナはフィリオでもない。

 しかしリュナの否定の言葉は、先ほどと同じように二人に届かない。マーテルとパテルは優しい笑みを浮かべるばかりだ。

 リュナの頭の上の帽子から、大きな溜め息が漏れた。


 リュナはマーテルとパテルの家で、一人部屋を与えられた。そこはフィリオという名前の人物の部屋だったらしい。フィリオとは、マーテルとパテルの息子の名である。

 雨に濡れたローブを部屋の端にかけ、木のような形のハンガーラックの頂上に黒い帽子をかけた。帽子は水分を吸収し、心なし萎んでいる。

 リュナはベッドの端に腰かけ、考えごとをしている。ローブを脱ぎ露わになった右腕には、以前より広がった黒い痣が見える。その腕の先、中指に見える呪われた宝石。

「ここがお前んちだったのか?」

 いつもよりクシャッと歪んでいる顔でエルピスが話しかけてきた。

「違う。俺に帰る家はない」

「家族は何してる?」

「俺に家族はいない。仮にいたとしても、そいつらは人間の皮を被った薄汚い生物だ」

「そうか。まあ、人間は大なり小なりそんなもんだろ」

 なんだろう。もしかすると慰めのつもりかもしれない。

「エルピス。きみには家族はいるのか?」

「家族? ふふっ」

 エルピスは不気味な顔を歪ませて笑う。一応真剣に尋ねたつもりだが。

「オレ様を誰だと思ってやがる」

 なぜだが彼はそのフレーズを気に入っているようだが、リュナはちっとも面白くない。

「エルピスだ」

 外では雨がまだ降り続いている。

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