雨と忘却の村

降り始める雨

 まもなく目的の駅に到着するということで、列車のコンパートメント席に座っていたリュナは降りる準備をした。といっても、彼の荷物は大きくもないショルダーバッグが一つだけ。中身は着替えと数冊の本。彼にはそれだけで充分だった。昔に比べたらそれでも多いほうだ。命さえ無くさなければそれでいい。

 隣のシートに置いていた黒い帽子を頭にのせる。今ではもうあたりまえの動作になったが、よくよく考えればこの帽子をいつまでも身につけなければならない義務もない。でもきっと、自分はこの帽子を手放すことはないだろう、とリュナは考える。その理由は自分でもよくわからないが。

 開いたドアから列車を降りる。ホームをざっと眺めると、彼の他に降りたのは二人だけだった。

 列車を迎えるホームと改札だけから成る小さな駅を出る。近くに高い建物はなく、広い空と、遠くの山の緑がよく見える。駅前にもほとんど人はいない。

「辺鄙な場所だな」

 頭の上のエルピスが呟いた。リュナはとくに応えない。場所には、辺鄙かそうでないかの二択しかないのだから。他人に好きと言われても、好きかそうでないかの二択のうち一つを選択されただけなのだから、だからどうしたと言いたくなる。そこに具体的な行動を促す意味は含まれていない。けれど普通の人間はそうは考えないようだ。

 駅前に寂れた売店があった。干していた服が風に飛ばされて、誰にも気づかれず土埃にまみれ、汚れた路地裏に放置されているような、そんな寂れ方だ。

 リュナはその売店に入った。小さな透明の冷蔵庫に入った飲み物や、棚には古臭いお菓子の類が並んでいる。少し埃臭いが、まだ廃墟というわけではなさそうだ。

 店の奥、床が一段高くなって奥の部屋に繋がっている箇所の端に、老人が俯いて腰かけていた。あまり生気を感じられず、半分置物のような状態だ。

「こんにちは」

 リュナは老人に声をかけた。が、まったく反応を得られない。寝ているのか、耳が遠いのか。それとも……。

「こんにちは」

 もう少し老人に近づいて、リュナはもう一度言った。

 すると、まるでスローモーションのようなスピードで老人がゆっくりと顔を上げ、リュナを見た。とても不思議そうな目だ。

「お客さんかい?」

 老人の発音もとてもゆっくりだった。きっと異なる時間軸を進んでいるのだろう。

「いいえ」

 リュナが答えると、老人はリュナを見つめたまま、小さく首を傾げた。

「この近くに、レーゲンという村はありますか?」

 リュナは老人が聞き取れるように、ゆっくり丁寧に発音した。

 老人の意識にリュナの言葉が染み込むまで、しばらく時間がかかる。

「ある」

「そうですか」

「きみは、その村に行きたいのか?」

「はい」

「……そうか」

 老人は、意識の半分が夢の中に漂っているような、ぼんやりとした表情だ。

 せっかちではないリュナは待つのが苦痛ではないが、頭の上の帽子からどことなく苛立っているような雰囲気が伝わってきた。エルピスではこの老人とやりとりするのは難しいだろう。おそらく会話にならない。

「あそこの連中は、歪んでいる」

 老人が唐突に言葉を発した。リュナは老人に意識を戻す。

「行くなら、気をつけるといい」


 リュナは道を歩いた。左右を草木が生い茂っているが、そこだけ草の生えていない土がずっと伸びているので、おそらく道なのだろう。

 前後左右、どこにも人は見当たらない。人でないものなら出てきそうだ。

「退屈だ」

 頭のエルピスが呟いた。退屈ということだが、都会にいれば退屈が紛れるのだろうか? 帽子であるかぎり、自分の意思で動けないことにかわりはない。帽子は帽子できっと大変なのだ。リュナも帽子にはなりたくない。

 道を歩いていくと、左右が木々の連なりになった。森の中を横切る道。土と緑の匂いが強くなる。土を蹴る自分の足音が響く。

 大気の匂いが変わる。雨の匂いだ。すぐに一雨来るだろう。

 森を抜けたところで、雨が降り出した。雨音はリュナの意識の中に金管楽器の軽やかな音色で響いた。

 前方に石で造られた小さな橋がある。その下に細い川が流れている。橋の先に、いくつもの住宅がかたまっていた。レーゲンの村だ。

 橋を渡り終えた瞬間、リュナは妙な感覚を覚えた。

 まるで、これまでとまったく違う世界に突然迷い込んだような。もう元の世界には戻れないというような。

 空から幾千の雨が舞い降り、大地を打つ。

 天の涙が降り注ぐレーゲンの村は、まるで泣いているように悲しげに見えた。

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