儚げな菫色

「行ってらっしゃい」

 ウェルスに声をかけられたフルールは、言葉のかわりに彼に向かって丁寧にお辞儀をし、スクールバッグを肩から下げて家の敷地から出ていった。

 この日仕事のなかったウェルスは、家の庭で朝から剪定をしていた。

 フルールはとても真面目な子だった。勉強は熱心だし、何か問題を起こしたことも一度もない。話すことができないというハンデを持ちながらも、学校では先生とも生徒たちとも上手くやれているようだ。それはおそらく、彼女の生真面目さと生来の人を思いやる優しい心のおかげで、信頼を勝ち得ることができたのだと思う。

 また、フルールはウェルスとリシェスに対し、実の娘のように振る舞ってくれた。一生かかっても拭い切れないトラウマがあるにもかかわらず、すぐに家族の一員として二人に馴染んでくれた。二人からの愛を真摯に受け取り、心から喜んでくれた。親から見放されたフルール。子供のできないウェルスとリシェス。お互いに開いた穴を埋め合った。

 出会った時はまだ幼い子供だったフルールも、今では素敵な大人の女性になりつつある。その可憐な容姿は、見る者を惹きつけるに足る充分な魅力がある。もし自分が彼女の同級生だったら迷わず声をかけているだろう、とウェルスは思った。そう考えると、学校でろくでもない男たちが彼女に声をかけてこないか、心配で夜も眠れない。そのことを正直に妻のリシェスに話すと、鼻で笑われた。こっちは死活問題だというのに。

 もちろん、フルールにそういう人ができれば、ウェルスは迷わず応援するつもりだ。彼女が選んだ相手であれば、それは確実に信頼できる人物に違いない。こういうことをリシェスに話すと、また親バカだとか言われてしまいそうだが。

 ウェルスが庭の手入れを続けていると、ふと家の前の通りから人の気配を感じた。ウェルスはそちらに目を向ける。

 全身黒尽くめの男性らしき人物が立っていた。頭に被った山型の黒い帽子が印象的。

 なにやら不気味だ。そう思って目を逸らしかけたウェルスだが、意識のどこかでその人間に引っかかりを感じた。数歩近づき、その人物をよく観察する。

 どこか見覚えのある顔だった。他人を寄せつけない鋭い目つき。頬のこけたシャープな顔の輪郭。

 ウェルスの中で、過去の記憶が蘇ってきた。

「きみは……」

 黒の人物は静かにウェルスを見つめている。

「お久しぶりです」

 その冷めた響きのある声を聞いて、ウェルスは確信した。

「きみは、あの時の少年。リュナか?」

 男は、ウェルスの言葉に小さく頷いた。


 ウェルスは家にいるリシェスに一言断りを入れ、リュナと街を歩いた。

 近くに庭園があるので、そこへ向かった。

 緑と花のアーチが出迎えてくれる入口を通って、庭園に入る。

 広大な敷地に設置された花壇には、色鮮やかな花々が咲き誇っている。風に乗って届く芳しい香り。美しい情景は、自分の心まで美しくなったように感じさせてくれる。

「ずいぶんと大きくなったね」

 ウェルスは隣を歩くリュナに向かって微笑みながら言った。

 リュナはちらっとウェルスに目を向けたが、その顔はニコリともしない。体は大きくなったが、ぶっきらぼうな感じはそのままだ。

「元気だったかい?」

 リュナは言葉を返すかわりに、戸惑ったような表情を浮かべた。感情表現が不器用なところも変わらない。

 それからウェルスはまた前を向いて歩いた。リュナは黙ってついてくる。

 道沿いに木陰のベンチがあった。ウェルスはそのベンチに座った。リュナが立ったままだったので、ベンチの空いているほうをペンペンと叩いた。リュナは迷いながらもそこへ座った。

 日なたも良いが、木陰も涼しくて気持ち良い。鳥の囀りが遠くから聴こえる。

 ウェルスは隣にいるリュナを見た。リュナは前方を見つめながら、何かを考えている。急かす必要もない。ゆっくり待とう。

 リュナがこの街を訪れたことに初めは驚いたウェルスだったが、次第に喜ばしい気持ちになった。彼は、フルールの恩人であり、自分たちを巡り合わせてくれた人物だ。あのころのリュナはもっとギラギラと殺気に満ちたような少年だったが、今日はとても謙虚でおとなしい。元々物静かな人間なんだろう。

 俯き加減だったリュナの背筋が伸びた。それからゆっくりとウェルスに目を向ける。

「フルールは……」

 そこで言葉が途切れた。

 風が吹き、葉が擦れる音が鳴る。時間が止まったわけじゃない。世界は動いている。

「フルールは、ちゃんと暮らせていますか?」

 とても心細い声だった。いろんな迷いが混じり込んだ声。

 ウェルスはリュナを安心させるために、笑顔を浮かべながら言った。

「ああ。毎日元気に暮らしている。大きな病気もなく、ね。私と妻は、フルールがいてくれて、とても幸せだ。彼女もそう思ってくれていると嬉しい」

 少し目を見開きながらウェルスを見つめていたリュナは、一度視線を逸らせた。

「そうですか。よかった」

 リュナは自分の手の平を見つめている。そこに目に見える何かがあるわけではない。

「フルールとは会ったかい?」

 数秒経ってから、リュナは答える。

「いいえ」

「彼女はきみに会いたがっているよ」

 リュナは少し顔を上げて、遠くを見つめた。

 リュナの口が開いた。しかしそこから言葉が出ることはなく、その口は閉じられた。

 ウェルスは少し腰を上げて座り直した。何か声をかけようとしたが、その前にリュナが言った。

「彼女には、会いません」

「……なぜ?」

 遠くから子供のはしゃぎ声が響く。花壇の近くを親子連れが歩いていた。

「きっと、そのほうがいいんです。お互いに」

 その言葉は嘘だ。その気持ちは嘘だ。リュナが何をそこまで思い悩んでいるかわからないが、ウェルスはこのままではいけないと思った。

 だがウェルスが口を開きかけたところで、リュナのその瞳が目に入った。

 どこまでも深い悲しみを湛えた瞳が。

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