麗らかな朝日

 私の顔を覗き込むその瞳。

 目元にかかる黒い髪。いつも気丈に振る舞う、だけど本当は壊れやすい心を抱えた、彼。

 小さいけれど私にとっては大きなその背中。

 何もできない私の手を取って引っ張ってくれるその優しい手。

 月のような、眩しすぎない、それでもちゃんと夜道を照らしてくれる、柔らかな光。

 私に名前は与えてくれた。私に道を与えてくれた。私に希望を与えてくれた。

 私にはそれだけで、充分だった。

 家が無くても。家族がいなくても。食べるものが無くても。

 彼さえ傍にいてくれれば。

 だけどこの気持ちは届かない。優しすぎる彼は、私の幸福を願ってくれる。

 私の気持ちも知らないで……。

 彼のほうに向かって自分の手を伸ばす。

 いつも私に応えてくれる、優しい彼。

 でも、いくら手を伸ばしても、もう彼に届かない。

 この気持ちを考えたことがある?

 私がどれだけあなたを大切に想っていたかを。

 行かないで。

 お願いだから。

 遠ざかっていく彼の背中。

 私に声があれば。この気持ちを伝えれば。

 彼は、振り返ってくれるだろうか?

 待って。

 もう一度、

 私の手を握って。

 あなたのその優しい笑顔を、私に見せて。


 フルールは目を覚ました。

 カーテンの隙間から穏やかな朝日が差し込んでいる。一日の始まりを告げる小鳥たちの囀りが軽やかに響いた。

 フルールはベッドで仰向けになって目を開けたまま、ゆっくりと呼吸を繰り返す。

 彼のことを想うと、最後はいつも虚しくなってしまう。彼がいなくなってしまった事実をまざまざと突きつけられる。

 彼に会いたかった。伝えたい気持ちがたくさんあった。感謝だけじゃない。大切な人が傍からいなくなった切なさだって教えてあげる。

 あなたがどれだけ大切な存在だったのか、何年かかってでも伝えたい。

 フルールは体を起こし、ベッドから下りた。

 彼女の部屋は三階にある。下の階に下りて両親に挨拶する前に、フルールはテラスに出た。

 さっと柔らかな風が体にかかる。その静かな刺激は心地良く、朝の新鮮な空気が全身を潤すような感覚。まだ起き抜けの太陽の光は適度な温かさをもって迎えてくれた。

 清々しい朝を感じながら、フルールは彼を想った。

 彼もまた、この朝日を浴び、同じ風を感じているだろうか?


 リュナは朝のフィオーレの街を歩いていた。お洒落なショップの立ち並んだ通りを抜け、海辺の遊歩道に来た。

 花壇に植えられた色とりどりの花々。小さく揺れる水面は日の光を反射し、宝石のように輝いている。遊歩道にはユニフォームを着てジョギングをしている人や、犬の散歩をしている人がいた。

 平和な光景だ。平和はいつだってそこにある。問題は、それに気づけるかどうかという人間の心の持ちようだ。

 リュナは遊歩道を歩きながら、昨日エルピスに言われたことを考える。

 自分の願い。この世界に求めているもの。

 自分はなぜ、生きているのか。何のために生きているのか。

 リュナが見る景色は、平和ではない。いつだって、醜く歪んでいる。

 心が歪んでいる。

 大きな傷を受けた心はもう、純粋ではいられない。

 だけど彼女は。

 彼女だけが、純粋だった。

 いや、違う。

 彼女と一緒にいる時だけ、自分は純粋でいられたのだ。

 自分は確かめたいのかもしれない。

 この世界の、美しさを。


 とても穏やかな朝だった。麗しい一日の始まり。

 ヴァンは、フィオーレの街を一望できる高台にいた。

 この日起こることになる出来事は、まだ彼女しか知らない。眼下の街にはただ朝の日常が広がっている。

 ヴァンはこの街の未来の光景とともに、自分が辿ることになる運命も知っていた。

 ちょうどいい頃合いかもしれない。もう未来を、そしてこの世界を、見ることに疲れてしまった。

 人に力を与える漆黒の宝石は、きっとただのきっかけにすぎない。それが無くても、人は欲望を育てる。

 それが人だ。

 欲望が放つ魅力には、抗えない。

 だから自分も、あの箱を開けてしまったのだ。

 ユーベルはピトスから生まれた。

 それは人の願いの結晶。欲望の化身。

 欲望は世界に広がった。

 最後までピトスに残ったのは、一つだけ。

 ヴァンは思わず笑った。声を上げて笑った。

 なんて可笑しいんだろう。

 あれの顔を想像したら、笑わずにはいられなかった。

 そうだな。せっかくだし、最後まで足掻いてあげる。

 少しでも長く、この世界を見届けてあげよう。

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