鴇色の平和

 ヴァンはリュナがしているユーベルの指輪が欲しいと言った。指輪をもらえれば、リュナを監視の目から解放してくれるらしい。

 ヴァンは楽しげに微笑んでいるが、その赤い目の輝きはどこか不気味だ。

「どう? 私がデートしてあげたお礼として、渡すつもりはない?」

 リュナは正面に座っているヴァンを観察するが、その意図はよくわからない。何のためにリュナから指輪を奪いたいのか。リュナが指輪を所持していることを問題としているのか。単にユーベルの指輪が欲しいのか。

「できない頼みだな」

 頭の上のエルピスが口を開いた。帽子から凶悪な顔が出現していると思うが、レストランの他の客や店員が気づいている様子はない。

「少なくとも、お前が理由を言わないかぎりはな」

 ヴァンがエルピスを見据える。口元は小さく笑みを作っているが、目つきはやや鋭い。

 それからヴァンは頬杖をつき、そっぽを向いて何か考える素振りになった。

 リュナはテーブルに置かれたカップを手に取り、コーヒーを口に運んだ。心地良いほろ苦さが口に広がる。そしてコーヒーのカップをテーブルに置くと、リュナは言った。

「じゃあ、お開きということでいいかな?」

 リュナの声に反応し、ヴァンが彼のほうを向いた。また何か小言を言われるかと思ったが、この時は意外にも素直だった。

「そうね。そうしましょうか」


 リュナはヴァンを残してレストランを出た。リュナを監視すると言っていたはずだが、ヴァンがこれ以上ついてくる様子はなかった。

 日の落ちたフィオーレの街を歩く。夜になっても、この街は美しい。明るすぎない街灯が品良く街の花々を照らしている。人工物と自然の調和がとれた、心落ち着く景色。ようやくヴァンを撒けたリュナは、宿に向かって歩いた。

 リュナがこの街に来たのには、理由がある。しかしそれは何か具体的な行動を伴ったものではなかった。心に動かされたというような、彼にとっては珍しい感情。

 かつて別れた少女、フルールがこの街に住んでいることをリュナは知っていた。彼女を引き取った男ウェルスの自宅がこの街にあると聞いていたからだ。ウェルスはクールンの街にも別荘を持っているらしい。そこに滞在している時に、リュナたちと出会った。

 奇遇にも、フルールを養子にしたウェルスと、リュナを『フリーデン』の一員として勧誘したリブロは知り合いだった。別れて以来フルールと顔を合わせたことがないリュナだが、リュナの近況は人伝いでフルールの耳にもなんとなく入っているかもしれない。

 そしてレーゲンの村でリュナと会った時、リブロがフルールからの手紙をリュナに渡してきた。リュナはすぐに彼女がしたためたその手紙の文面を読んだ。そして今、リュナはフルールのいるこのフィオーレの街にいる。心の赴くままに。

 エルピスにも言ったように、リュナはフルールと直接会うつもりはなかった。彼女がまっとうな生活を送り、希望を持って生きられているのならそれでよかった。彼女の人生に、自分のような穢れた人間は必要ない。それでもなぜか、レーゲンの村を出たリュナの足はこの街に向かった。

 宿泊する宿に着いた。そして入り口から入ろうとした時、リュナの嗅覚が微かに嫌な臭いを感じ取った。

 リュナは振り返り、歩いてきた通りを眺める。

 一瞬だけ、何者かの視線を感じた。

 ヴァンはリュナを監視すると言っていた。リュナが危険な存在だからだという。リュナには確かに一般的な人間に比べれば自分はよっぽど危険だという自覚があった。それがわざわざ監視する人間をつけるほどかどうかはわからないが。

 ただ、この臭いは、ヴァンのものではない。

 もっと別の……。

 自分はこの臭いを知っている。

 忌まわしい、臭いだ。


 レストランに一人残ったヴァンは、先ほどまで一緒にいたリュナという男のことを考えていた。

 他人を寄せつけない刺々しい雰囲気。この世の多くの醜さを目にしてきたような冷めた瞳。疑い深く思慮深い意識。ごくたまに見せる、温和な表情。

 他人への一切の依存を許さない彼に、エルピスだけが傍にいることを許されている。ヴァンは、エルピスのことが少しだけ羨ましかった。

 ヴァンとエルピスは、お互いのことを知っている。あれが開かれたその時から。

 自分はこの世に悪意をばら撒いた罪を償わなければならない。彼女はそのために『フリーデン』なる団体を組織した。もしかすると、単なる気まぐれかもしれない。

 ヴァンは自分の左目近くの頬に指先をあてた。

 この左目は、現実の物を映さない。映すのは、未来の断片だ。

 カラーコンタクトでカモフラージュされているが、彼女の本来左目がある場所には、ユーベルが埋め込まれている。彼女の左目は赤などではなく、この世の何よりも濃い黒だ。

 ヴァンはその漆黒の瞳で目にした。この美しい街が辿ることになる光景を。

 未来は変えられない。それは、未来というものがあらかじめ決まっているという前提に基づく。普通の人間はそのような戯言は信じない。

 変えられないのなら、一体何のためにある目なのか? 自分はユーベルを集め、何をしようとしているのか?

 ヴァンはあのリュナという男とエルピスに期待している。彼らがその答えを示してくれることを。

 この世に希望があるという証明を。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る