切り傷のような痛み

「ピトス? なにそれ?」

「箱みたいなもの。中に空洞のある器だと言われている」

「言われてるって」

「誰も見たことないから、実際にどんな形なのかはわからない」

「誰も見たことないものを探しているの?」

「そうなるね」

「本当にあるの?」

「見つけたことがないからわからない」

「なんか、馬鹿みたい」

「そう? 人間ってそういうものなんじゃない?」

「なんで?」

「幸せって、目に見えないものだと思うけど」

 リュナはソレッラとともにノーチェの町を歩いていた。街灯は常に明かりを灯し、暗く寒いこの町に微かな温かみをもたらしている。

 吐く息が白い。吐息が視覚化されることにより、人は絶えず不純物を生成し撒き散らしている存在だと知る。自分勝手な、薄汚い生き物だ。

 時計台の前までやってきた。広場には人が多く、なんだか騒がしい。

「今日はお祭りがあるの。ランタンに火を灯して、一斉に天に向かって浮かばせるんだよ」

「へえ。それはさぞかし綺麗な光景なんだろうね」

「なにその言い方。興味なさそう」

「そんなことはないよ」

 時計台の中に入った。一階部分は教会になっている。とても静かだ。奥のほうに階段がある。外から見たところ、時計台は建物十階分以上の高さがあった。さすがに階段で上りたくはないので、エレベーターが下りてくるのを待ち、乗り込んだ。

 上階まで上がり、エレベーターから降りて階段を上がると、外から見える時計盤の裏側に出た。前後左右に一つずつ、計四つの大きな時計盤。多数の歯車が組み合わされて、時計が動いている。この町の時を刻んでいる。

 さらに階段を上がると、冷たい風が吹きつける展望台に出た。夜の明けないこの町を一望できる。

 リュナは肩より少し低い塀のところまで進み、広場を見下ろしてみた。

 下のほうで、蟻のように小さく見える人間たちが蠢いている。

 リュナは、まだ階段付近に立っているソレッラのほうを振り返った。

「お姉さんは、ここから?」

 ソレッラは、数秒経ってようやく、リュナの言葉に小さく頷いた。反応がよくない。それに、顔色も悪い。きっと、この場所の肌寒さによるものではない。彼女に恐怖の色が見える。

 ここへ一人で来るのが怖かったのだろう。姉の死という事実に近づくから。だからリュナに一緒に来てもらった。

 リュナはもう一度、広場のほうを向く。ここから飛んだ時、どんな気持ちだっただろう? 磁石のように地面に吸い寄せられる。星に激突する数秒の間に、何を思っただろう? 鳥のように飛べないことを呪っただろうか? 死が確実だと悟った数秒の間に、人は何を感じる? 運命を呪うか、それとも悟りを開くか。

 ソレッラは、まだ動かない。というより、動けないようだ。そろそろ下りたほうがいい。

 リュナが踵を返そうとした時、突風が吹いた。頭の上の黒い帽子が風に飛ばされる。

 宙を舞った帽子はちょうどソレッラのほうに飛んでいき、彼女の手の中に収まった。

 帽子から真っ赤な目と牙の生えた口が出現する。

「きゃあああぁぁぁ!」

「うおおおぉぉぉ!」

 ソレッラは凶悪な顔を目撃し悲鳴を上げ、エルピスは突然目の前で悲鳴を上げられたことに驚いて雄叫びを上げた。

 ソレッラは悲鳴を上げた勢いのまま、帽子を思い切り床に叩きつけた。

「いってぇぇ! なにすんだテメェ!」

 叩きつけられぺしゃんこになった帽子が批難の声を上げている。よくよく考えるとシュールな光景だ。

「何なのコレ! なんか顔あるし、喋ってる!」

 リュナは帽子を拾い上げ、パッと汚れを払い、頭の上に戻した。

「こう見えて、俺のただ一人の相棒さ」


 ソレッラは、一度リュナと別れた。ウェイトレスの仕事が入っている。迷惑そうな顔をするリュナを説得して、半ば強引にのちほど広場で再び合流する約束を取りつけた。

 姉を殺した犯人を一緒に探してもらいたい。そういう名目でリュナに近づいたソレッラだったが、きっとそれは本心ではない。自分でも薄々気づいている。自分は安心したいだけなのだ。

 姉の死は、仕方のなかったこと。誰かにそう言ってもらい、罪の意識を紛らわしてしまいたい。昨日リュナの言った通り、これは自己満足の行動だ。

 ソレッラが姉と最後に会った時、二人は喧嘩した。お互いに罵り合う、醜い喧嘩だ。そのうちきっと仲直りできる。そう簡単に考えていた。けれど、そのうちはやってこなかった。永遠に。

 ソレッラは自分の行いを悔やんだ。姉とは喧嘩別れしたままもう会えなくなってしまった。どうして素直になれなかったのか。せめて、お互いに納得した状態で別れられたら――。

「ソレッラ」

 自分の名を呼ぶ声に気づき、ソレッラは我に返った。仕事中だ。

 客であるスタイルの良いハンサムな男性が、微笑みを浮かべながら彼女を見つめている。

「この後ちょっと時間を取れないかい?」

 声をかけてきたのは、姉と恋人関係だった男。

 アルトだった。

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