肌を撫でる風

 朝焼けがまだ橙色の光を残しているころ、リュナは駅のホームで列車を待っていた。

 新しい一日の始まりの匂い。草木が芽吹き始めるようなひっそりとした静寂。リュナは朝方のこの時間が好きだった。

 紺色の塗装の列車がホームに進入してくる。大陸の主な都市を回り、大きくグルッと一周して戻ってくる路線。開いたドアから中に乗り込んだ。

 座席は向かい合わせのコンパートメント席が並んでいる。リュナは通路を歩き、一人になれる誰もいない席を探し当て、そこに座った。

 列車が出発する。新しい旅の始まりだ。

 被っていた口煩い帽子を外し、隣の椅子に置いた。

 しばらく窓から外の景色を眺めて過ごした。繁華街から、住宅地、さらに郊外の自然へと景色は移っていく。白い鳥が並走するように飛んでいたが、やがて方向と高度を変えて飛び去っていった。

 じきに景色を見ることに飽きたが、他にすることもなかった。本当なら読書をしたかったのだが、強襲に遭ったために本は宿の部屋に置いてきてしまった。いつか壊れたドアの弁償代を払いにいこう。

 何も考えずぼーっとし、ウトウトし始めたが、何者かの足音が近づいてきたためにリュナの意識が覚醒した。

「ここ空いてる?」

 黒のセーターに、ワインレッドのロングスカート。焦げ茶色のブーツ。長いブラウンヘアーはクロワッサンみたいにクルクルしている。吸い込まれそうな大きな瞳はルビーのように赤い。大人っぽさと子供っぽさを併せ持ったようなどっちつかずの小顔。そんな女性が声をかけてきた。

「空いてはいる」リュナは囁くように答えた。

 女が不思議そうな目をリュナに向ける。

「だけど、座ってもらいたくはない」

「あらそう」

 そう言って女は一切の躊躇いを見せずにリュナの正面に座った。なかなかに図々しい。

 女は足を組み、膝辺りに肘を置いて、さらに手の平の上に顎をのせた格好で、リュナを眺めている。リュナは今すぐ女との境にバリケードを張ってしまいたかった。

「今思い出したけど」リュナは言う。

「なに?」

「そこの席、空いてなかったんだ」

「そうなの? 誰もいないみたいだけど?」

「普通の人間には目に見えない妖精が座ってる」

「その帽子、あなたの?」

 女はたまにリュナの言葉が聞こえなくなるようだ。リュナの隣に置かれた黒い帽子を指差した。

「そうとも言えるし、違うとも言える」

 女は黒い帽子をじっと見つめている。やはりリュナの言葉は聞いていないようだ。聞くつもりがないなら何も尋ねないでほしい。

 女の唇が小さく動いた。何か小声で言葉を発したようだが、聞き取れない。来いというように右手の指を手前に二度動かした。

 黒い帽子が宙に浮かぶ。

「うおっ」

 リュナのものでも女のものでもない声が響いた。

 宙に浮いた帽子はゆっくりと進み、女の手元に降り立った。

 女は帽子を持ち、深く観察している。

「欲しかったらあげるよ」

 リュナが言うと、帽子のリュナには見えるが女には見えない位置から赤い目が出現し、リュナを睨みつけた。

「いいえ、趣味じゃないから」

 女は唇を尖らせて帽子にふっと息を吹きかけた。すると帽子が風に吹かれたように飛び、リュナの隣に戻ってきた。

 リュナは黙って女を観察している。その視線に気づいた女が言う。

「なあに? あなただってできるでしょう?」

 女は力を行使した。おそらく黒い宝石ユーベルを所持していて、もしかすると『フリーデン』の一員かもしれない。リュナが単なる一般人ではないとわかったから、力を見せつけた。だがリュナは右手に黒い手袋をし、ユーベルの指輪を隠している。なぜわかったのだろう? そして、何がしたいのか?

 女は飄々としていて、掴みどころがない。風のように掴めずに逃れていく。その考えは読めない。

「一人でいるほうが落ち着くんだ」リュナは言外に願いを込めて言った。

「あら、嫌われちゃった」女は楽しそうに無邪気に笑った。「だけどあなた、私が来る前から一人じゃないでしょう?」

 リュナは小さく目を見開いた。女の言葉の意味を考える。

「まあ、お邪魔だったら他に行くわ。最後に一つだけいい? あなたのお名前を教えてくれる?」

「リュナだ」

「そう。私の名前は訊いてくれないの?」

「あなたのお名前は何ですか? ぜひ聞かせてほしい」

「ヴァンよ」

 女は席を立った。

「じゃあね。きっとまた会うと思う。それから」

 ヴァンはリュナの横に目を向けた。

「そちらの帽子さんにもよろしくね」

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