♡第16話 だって私、正樹のこと――

 もう、全部やだ。


 頬を伝う雫がぴしゃっと潰れて肌に纏わりつく。それを手で拭うと余計に広がって、顔全体が涙の膜に覆われてしまう。


 どんどん悪化していくことが嫌で両手を顔から離すと、夜風が頬を撫でた。

 

 冷たい。


 私は……何がしたいの?


 ユーちゃん先生を休職に追いやった姫宮さんに復讐をしたい。

 それはユーちゃん先生が好きだからだ。

 何年も何年もこの想いは絶対的で、いつだって私の心の中心にあった。


 でも私は、橋本さん……正樹が姫宮さんに見とれている姿を目の当たりにして、激しい感情を宿してしまった。


 それはユーちゃん先生が姫宮さんとキスしたことを知った時と似て非なるもの。


 初めての感情だ。


 ユーちゃん先生の時は、ただただショックで、心の柱を抜かれたような気持だった。


 でも正樹の時は違う。心臓が割れそうで、その内側からマグマが溢れるような憤怒があった。


 そう、私は怒っていた。


 誰を? 姫宮さんを?


 もちろん姫宮さんのことはどうしようもなく憎い。

 大学生とラブホに行くのに、ユーちゃん先生の人生を壊した。

 正樹まで誘惑しようとした。


 姫宮さんが憎い。でも、私が怒ってるのは正樹に対してだ。


 裏切られた、と思った。


 ずっと運命共同体だと思ってた。短期間の付き合いだけど、ただの偽の恋人だけど、それでも心は深く繋がっていると思ってた。


 でも、あの顔を見て、悟った。


 この人誰でもいいんだ。綺麗だったら誰でもいいんだ。

 綺麗な人を前にすると、私との復讐なんてどうでもよくなっちゃうんだ。


 皆川さんも、姫宮さんも綺麗だ。だから男の人が惑わされる。

 

 そんなの見たくないよ。

 せめて正樹は、そんな人じゃないって思いたかったよ。


 それに、否定の言葉が『皆川以外を好きになるわけない』だなんて、聞きたくなかったよ。


 だって私、正樹のこと――



「あれ? えっと……五月女さん、だっけ?」

「……え」

「どうも、真島です。覚えてる?」

「あ……」

「こんな時間に人気ひとけのない公園で一人なんて、危ないよ」



 ベンチに座る私の前に現れたのは、ランニングウェア姿の真島さんだった。

 

 私は慌てて立ち上がり、「その節はすみませんでした……」と丁寧に謝った。

 でも、涙声が滲んだ声は、自分でもよく聞き取れないくらいに淀んでいた。



「もしかして、泣いているの?」

「いえ……」

「ここじゃ危ないし、身体が冷えちゃうよ?」

「はい……」

「う~ん、どうしよう。そうだ、カフェにでも入ろうか」

「いえ……あ……」



 冷静になれ、私。これはチャンスだ。


 正直、迷惑をかけた側からデートなんて誘えない。

 でも今は、真島さんから声を掛けてくれている。


 善意を踏みにじるようでちょっと悪い気もするし、作戦も何もないけど、正樹のためにも頑張って落とさなきゃ。


 あれ……私は正樹に怒ってるのに、なんで正樹のためにまだ頑張ろうとしてるんだろう?


 姫宮さんに簡単に落ちて、それでも『皆川以外を好きになるわけない』と言い放った正樹のために、なんで私は復讐を続けようとしているの?



「ごめん。急に誘って嫌だったかな? じゃあ、俺はこれで……」

「あ、まって……」

「ん?」

「あの……カフェ……行きたいです」



 それでも私は、復讐を諦めたくない。


 ……悔しいけど、正樹のために。




 

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