♡プロローグ 私、浮気したい!

 もう、全部やだ。


 私の大好きな先生が休職した。絶望しかない。


 ユーちゃん先生。28歳の数学教師。

 背が誰よりも高くてすらっとしてて、シルバーの細いフレームの眼鏡が身体の一部みたいに似合ってた。


 私が毎日質問に行っても、嫌な顔一つしないで教えてくれた。少しでも長く一緒にいたくて、うんと難しい問題を持っていった。

 唸りながら深く考え込むユーちゃん先生の彫刻みたいに綺麗な横顔が大好きだった。


 でも、それは突然起こった。


 1週間前の古典の時間。中村先生の子守歌のような朗読にうとうとしかけた時、後ろから肩をポンッと叩かれた。ビクッとして後ろを振り向くと、亜美が手紙を回してくれた。


 冒頭の一行を読んで、愕然。



千歌ちかへ ユーちゃん先生、生徒とキスしてたらしい。真由が数学準備室をのぞいた時に見ちゃったって――』



 全身の毛細血管がぷちぷちぷちっと一斉に切れる音がした。血も気力も感情も全て外に流れちゃったみたいに、身体には何も残らなかった。


 そして心には、マンホールみたいな深くて暗い穴があいた。


 なんで、なんで、なんで――?


 私に柔和な笑顔を向けてくれたこととか、真摯に問題を解いてくれたこととか、ツインテールにしたら褒めてくれたこととか、全部嘘だったの?


 ユーちゃん先生は、私じゃなくて他の生徒が好きだったの?


 ねぇ……それは誰なの?


 息苦しくなって、自分が呼吸を辞めていたことに気づいた。慌ててカビ臭い教室の空気を肺に供給して、亜美の手紙に再び視線を落とす。



『それでその相手が3組の姫宮ひめみやさんらしい。やばいよねあの子……』



 姫宮華乃ひめみやはなの。この学校の全員が知ってる女の子。

 読者モデルをやるくらい美人でスタイルが良くて、とにかくモテる。


 でも性格は最悪って噂。わがままで、きつくて、冷たいらしい。


 それに姫宮さん、彼氏がいる。



「……五月女さおとめさん、聞いていますか? 次の和歌、読んでください」



 中村先生の言葉が、空っぽになった私の身体に突然侵入する。

 次の和歌が何なのか分からなかったけど、後ろから亜美がこっそり教えてくれた。



「あ……はい……えっと……『思へどもしるしもなしと知るものをなにかここだく吾が恋ひ渡る』……うぅ……」



 ……嫌な記憶。

 そしてあの日から1週間たった今日、ユーちゃん先生は休職した。



 ファーストフード店でシェイクを一気飲みしながら、私は思う。

 

 何で私が先生の彼女じゃないの?って。


 確かに私は女子高生だけど、恋に年齢とか関係ない。ユーちゃん先生は私を特別扱いしてくれてたって思ってる。


 なのになんで姫宮さんなの?


 ありえない。容姿だけで中身がきつい姫宮さんとキスするなんて、ありえない。

 嫌だ。女子高生でいいのに私じゃダメなんて、嫌だ。

 泣きたい。明日からユーちゃん先生と会えなくなるなんて、泣きたい。


 肺の底からため息が溢れ、偶然右隣に座っている人のため息と重なる。


 その時だった。


 ファーストフード店の窓際カウンター席にいた私は、窓の向こうで歩いている1組のカップルを目撃した。


 すらっとした足に浮高の制服。ふわっとした明るい髪色のロングヘア。きりっとした二重と西洋人みたいに高い鼻。

 間違いなく姫宮さんだ。

 

 隣を歩いているのは、背の高いイケメン。俳優の菅野将太に似ている。



 これが――姫宮さんの彼氏。



 私の心の中は、シェイクみたいにドロドロになる。



 ――この男性を落として、姫宮さんを懲らしめよう。



 そんな悪魔のささやきが耳の奥でこだまする。

 気づいたら私の手元から、カメラのシャッター音が響いていた。


 そんな私に気づかず楽しそうに談笑する姫宮さんが視界からフェードアウトした瞬間、私は全身の力が抜けた。

 目の前にある、飲み干したシェイクの容器みたいに空っぽ。


 小さなスマホに、大きな悪意。

 私の努力次第で、姫宮さんに復讐することができる。


 ああ、私クズかな。でも、悪いのは姫宮さんだよね。彼氏がいるのに私の大好きなユーちゃん先生に色仕掛けするなんて、最低だよね。


 それにユーちゃん先生が休職したのって、絶対姫宮さんのせいだ。

 きっと噂が他の先生にバレちゃって居づらくなったに違いない。


 私が姫宮さんを懲らしめなきゃ、ユーちゃん先生だって報われないよね。


 なら開き直って、心の中で叫んじゃえ。



 「私、浮気したい!」


 

 姫宮さんの彼氏の浮気相手になって、姫宮さんを懲らしめたい。


 その思いが強すぎたのか、心の叫びは意図せず口をついて出ていた。

 そして、右隣の人の言葉と綺麗にㇵモった。


 あれ、今この人も私と同じことを言ってなかった?


 驚いて、思わず右を振り向く。



 そこにいたのは――姫宮さんの彼氏と同じユニフォームを着た男性だった。

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