★第30話 これが本当の恋愛

 信じられないくらいに心が煮えたぎっていた。


 怒り、悲しみ、痛み、そして嫉妬。


 風を切りながら、俺は心の中で叫んだ。



 千歌のバカ野郎‼



 真島先輩……いや、千歌への激しい感情が湧き上がる。

 皆川の時は真島先輩へ向いていた感情が、何故か千歌に向かう。


 それは千歌が嫌いだからじゃない。

 千歌のことを好きすぎるのだと思った。


 だからこそ、許せないと思った。


 無我夢中で走ると、いつの間にか姫宮さんの元へ戻っていた。


 手の震えを強引に握りつぶし、なるべく平静を装った。



「姫宮さん、ごめん……男子トイレの水道が故障していたみたいで……」

「大丈夫です。少しよくなってきたので」

「そ、それならよかった」

「橋本さん……もしかして泣いていますか?」

「え……いや……」



 俺はハッとして頬に手を滑らせた。

 頬は紛れもなく濡れていた。


 映画でも泣かない俺が、もう何年も泣いていない俺が、涙を流している?


 その事実に驚き、その場で硬直した。


 そんな俺を見て姫宮は不安げな顔をしながらゆっくりと身体を起こした。



「隣、座りませんか?」



 その言葉を受け、俺はベンチに腰を下ろした。それと同時に、姫宮さんが俺の首に腕を絡めた。


 ……抱きしめられている?



「お辛いことがあったのですね……」



 俺はその腕を振りほどくことも、何か言葉を発することもできなかった。



「ご事情はわかりません。でも、泣きたいときは泣いてください。私の胸の中で思う存分泣いてください」



 その言葉を受け、俺の中の何かが崩れた。


 それからすぐに感情が溢れ、堰を切ったように泣き喚いた。



 これが本当の恋愛なのだと、この痛みと苦しみこそが恋愛の証なのだと、俺は初めて知った。



***




「姫宮さん、ごめん……情けない姿を」

「いいんです。私も助けてもらったので、おあいこです」



 姫宮さんは薬のお陰か、すっかり顔色がよくなっていた。

 だから俺たちは、気分転換に大きな花壇の周りをゆっくりと歩いた。



「私の下の名前、何だと思いますか?」

「え……」



 そういえば、俺は姫宮の下の名前を知らない。

 連絡先は『姫宮』という表記だけだし、千歌からも聞いたことがなかった。



「私ってどんな名前のイメージなのかなって」



 名前のイメージか。俺は人に対してこういう名前っぽいだとか、この人はこういう趣味があるだろうとか、そんな予想をしたことがない。


 だから思いついた名前を適当に答えた。



「あー……麗華っぽいかな。麗しい華」

「ふふ。それ、よく言われます」


 

 よく言われるんだ……適当に答えたのに。

 


「でも、華は当たってます」



 すると姫宮はその場にかがんで、黄色い花に手を添えた。その所作は本当にしなやかだった。



「私、華乃っていうんです。花のように華やかにって想いが込められているみたいで。でも本当にそうなれてるのかな」

「姫宮さんは、花のように綺麗だよ」



 それはごく自然に出た言葉だった。

 例え好意がなくても、姫宮さんのことは心も容姿も美しいと思える。


 姫宮さんは頬を淡く染め、優美な笑みを浮かべた。



「橋本さんにそう言っていただけると、とても嬉しいです」

「そ、それはよかった」

「あの……私のこと、華乃って呼んでいただけませんか?」

「え、あ……」



 動揺した。俺は女子で下の名前を読んだことがあるのは千歌だけだ。なんというか、下の名前で呼ぶのは特別な感じがする。だから、安易に呼びたくないというのが正直なところ。


 でも、もし俺がここで下の名前で呼び始めたら、仲はより深まるだろう。なら、それも甘んじて受け入れるべきではないかと思う。復讐のために。



「いいよ。えっと、は、華乃……」

「ありがとうございます。えっと……正樹……じゃだめですか」

「え、あ……はい……大丈夫」



 心臓が高鳴って、息が浅くなる。



 俺は好きでもない女の子に、ただ美しいからというだけで、心が揺れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る