第55話 わたしがもらったもの

 夕暮れ。

 空の端が薄ぼんやりとしてきた頃、どちらからともなくわたしたちの手は離れて顔を見合わせた。何らかの充足感が部屋には満ちていた。それは、幾夜を重ねても得られなかったものだった。


「結局、あなたになにもあげられなかったね」

 わたしは少し黙った。そういうわけではない、と思ったけれど声に出すのは間違っている気がしてうつむいた。

 唇が、ゆっくり勝手に動き出す。

「もらいました、愛情を」

 その大きな手は遠泳をするときのようにそっと体に巻きついて、壊れ物のようにやさしく抱きしめられる。からだが強ばって息が止まりそうになる。彼の肩に頭を寄せる。いつかのように。


「元気でいて。しあわせにね。あなたがしあわせでいることが僕の願いだから」

 そうだ、と唐突に離されて哲朗さんはボトルを持ってやってきた。

「これ、いいワインなんだよ。彼ももう飲める歳なんでしょう? これを結婚祝いに持って帰ったらいいんじゃないかな?」

「いえ、そんな高いものを」

「いや、珠里はもっと僕から得るものがたくさんあったはずなんだ。ワイン一本じゃとても足りないくらいだよ。……あなたから下りたのは僕だよ、ごめん。あなたのしあわせを心からずっと祈ってる。これは本当」


 そこから先は何を言っても押し問答にしかならないのは目に見えていた。だからなにも言わずに頭を下げた。

「来てくれてありがとう。うれしかったよ」

 なにも、なにも言葉にできなくて頭を下げ続けていると扉はゆっくりと閉じた。


 重いワインの入ったバッグを引きずるようにぶら下げて、帰りは上り坂を一歩ずつ行く。望み通りの幸せを手に入れたはずなのに、心の中に迷いが渦巻く。

 誰かのしあわせを壊してまで手に入れるしあわせに意味があるのか――? いや、それこそ傲慢だ。わたしが哲朗さんをなんて考え方は単なる奢りだ。そしてわたしには今、帰るべき場所がある。


「お帰り。買い物? それとも気分転換にいつもみたいにブラブラしてきたの?」

 篤志。

 声に出さずに名前を呼んだ。

 倒れ込むように抱きついたわたしを、転ばないように支えてくれる。

「疲れてるの? 今日は早く帰ってきたから夕飯は俺が……。何を持ってるかと思ったらワイン? 高そうなラベルだな」

「結婚祝いにって」

 篤志の目がわたしを捉えた。わたしはしっかり目を開けて、その視線を捉えた。

「そっか。……明日はどこにも行く予定がないから飲んじゃおうか? あ! 珠里、大変だ。ワインオープナーがないよ」

 言われればその通りで、オープナーが必要なお酒をうちで飲んだことはなかった。

「一緒に行く? それとも待ってる?」

「行く」

 まだ帰ってきたままの服だった篤志はサンダルを履いて、わたしの手を引いてくれる。やわらかく、ふわっと。そうだ、つなぐべき手はこの手だ。なんで揺らいだんだろう?


 さっきまで履いていたつっかけに足を入れる。ふたりの部屋の鍵を篤志がかける。

「今日は実験、早く終わったの?」

「うん、思い通りにスムーズに済んだからね」

「そう、よかったね」

 日々、夕闇がやって来る時間が早くなって黄昏時を二人で歩く。

「まぁ、周りのやつとは気合いが違うからね。間違ったり、迷ったりしてる時間がもったいないよ」

「ふぅん」

「まだまだ俺は珠里をしあわせにしてあげるには、発展途上だからさ」

「……そんなこと考えなくていいのに」

「考えるよ、男だから」

「……ふぅん」

 篤志はそう言うことが元々多かったけれど、最近その頻度がぐっと増した。うれしくもあったし、重荷として背負わせてるんだというようにも思った。

 ただ、普通の子のように口説き文句のひとつとして喜んでおけばいいのかもしれないけど、そういう訳にはいかなかった。

 何しろわたしたちは駆け出しとは言え、夫婦なんだ。どちらかがどちらかの負担となっているのはよろしくない。フェアな関係でいたい。


「俺さ」

「うん」

「……ヤキモチ妬いちゃった、さっき。でも俺の珠里なんでしょう? こんなこと確かめるのはバカげてるし情けないけど」

「篤志の珠里だよ。ごめんなさい、多分、ちゃんとお別れがしたかったんだと思うの。自分でも上手くまとめられないけど」

 つないだ手を見つめる。

 二度とほどかないと決めた手。

「うん、さっぱり別れてくれたんならその方がいいよ。ヤキモチって嫌だから。自分が自分じゃなくなるでしょう?」

「そうだね」

「あー、指輪嵌めただけじゃダメなんだな。夫婦でいるって、大変なことだね。もうあんまりヤキモチ妬かせないでくれよ。ただでさえ珠里は誰から見ても魅力的なんだから」

「そんなんじゃないよ。――でも、もうこれが最後。ごめんなさい」

 つないでいた彼の左手の薬指に唇をつける。酒屋さんはすぐそこだった。わたしたちはそんなところで薄闇の中、お互いを求めてキスをした。


 今はもう、さみしくない。


(了)

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青い鳥 月波結 @musubi-me

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