第8話 言ってないこと
珠里はメンタルクリニックに通うことになった。
そのことについてはふたりで話し合って決めた。
ネットで評判のいい精神科を調べると、そこに当たった。ひとつ先の駅前に、他のテナントに紛れてひっそりあるクリニックだ。初めて行く日、俺は珠里に付き添った。
受付での手続きを済ませて、待合のイスに座る。ソファのような座り心地のいいイスが体の重みを受けてやわらかく沈む。珠里は席に着くとカバンからスマホを取り出して、静かに電子書籍を読み始めた。
精神科、と呼ばれるところがどんなところなのか想像していた。そこは心の病んだ人の行くところなのだから何かしら混沌としたところなのかと思っていた。漠然としたイメージから、なにかを覚悟してやって来た。
しかし実際に訪れてみると内装はアイボリーとダークブラウンを基調とした落ち着いたもので、壁には花の絵が飾られていた。
俺にはよくわからないモーツァルトかなにかのクラッシック音楽がかかり、待っている患者たちは風邪を引いて内科で問診を待っている患者たちより静かに見えた。
診察室には珠里がひとりで入っていった。本当にひとりでいいの、と聞くと、大丈夫だから、と答えた。
診察を終えて戻ってくると、「大丈夫だよ」と落ち着いた様子でそっと笑った。
処方箋をもらって薬局に行く。珠里は小さな白いレジ袋にたっぷり薬をもらってきた。その袋はガサガサと耳障りな音を立てた。
「ごめんね」
「なにも?」
「だって精神科なんて嫌でしょう?」
「まぁ確かに少し抵抗があったけど、いいんだよ。それで珠里が」
珠里が――なんと言っていいのかわからなかった。珠里もなにも言わずにうつむいて、顔にかかる髪をひとすじ、耳にかけた。ほこり混じりの春風が珠里のスカートを揺らす。紺色のワンピースに白いカーディガンを羽織っていた。
「別れようって、言わないんだね」
口から出した言葉と裏腹に、珠里が俺の手を強く握る。別れたいわけじゃないんだな、と安心する。珠里が病気になったのは珠里のせいではない。それはあの仕事のせいで、いまさら憎んでも仕方ない。そこで俺たちは出会ったわけだし。
「別れたいの?」
「ううん。ありがとう、一緒にいてくれて」
珠里は俺の腕をぐっと引くと、ひとの少ない舗道でぎゅっと突然抱きついてきた。でも以前のような、転ばされてしまうんじゃないかと思うような勢いはなかった。風で飛ばされそうに彼女は軽くなっていた。
「あのね、言ってないことがあって」
「うん」
「わたし……両親がいないの。小学生のときにふたりとも交通事故で亡くなって。母方のおば夫婦に引き取られて、大学に入るまでその家で育ったの。大学に入るときに保険金をもらって家を出たんだけど、おばさんに泣かれちゃって。実の子どももいるのに、すごくかわいがってもらって育ったんだよ」
「……そっか、じゃあ正月は」
「おばさんのとこ。すごく久しぶりだったから喜ばれちゃった」
頭にぽん、と手を置く。
「だからね、お金は本当はあるの。しばらく働けないかもしれないけど心配はいらないよ」
「お金の心配よりさ」
「ダメだよ。お金は大切なんだよ」
学校に行く時間が来ると、珠里は時折それを嫌がる素振りを見せた。これはもう今日は仕方ないかな、と思うころ、「薬を飲めば気持ちが落ち着くから大丈夫。行って」と言う。
そして帰ると布団で丸くなっていることがほとんどだった。時には涙で頬を濡らしたまま眠っていた。その涙を指先で拭う。一組しかない薄い布団が、珠里の涙で湿っていった。
「なんでかな。篤志がいないと泣けてきちゃって。でも大丈夫だよ、そういう時のための薬があるし、病院にも通ってるんだし」
なにも言えずに抱きしめる。緩やかなウェーブのかかったやわらかい髪は指の通りが悪くなり、ずいぶん全体的に伸びた。誘っても病院以外にはどこにも行こうとしない。
家自体が珠里の心と同じように死んでいた。
帰っても明かりはついていない。遅くなってもなにかを食べた形跡がない。頬がやつれてきて、なぜかクリームパンしか食べなくなった。
病院を変えた方が良くないのか、と思いながら帰りにコンビニでクリームパンを必ず買う。それしか食べないなら、それだけでも与えないわけにはいかない。クリームパンの入った袋を持って、走るように家に帰る。急がないと彼女は消えてしまうかもしれない。
持って帰ったクリームパンを一口分ずつ指でつまんで、無表情にもそもそと口を動かす。見ていられなかった。でも珠里には行くところがない。そしてまたいつか、出会ったころのように表情がころころ変わる彼女に会えるんじゃないかと期待して、日々を送る。
気持ちが逡巡する。
早く就職して珠里を安心させたい。その気持ちを自分の中の自分が押しやる。やりたいことがあるんじゃないのか? そのためにここにいるんじゃなかったのか? いいや、早く就職する方が珠里のためになるだろう。少なくとも珠里はお金のことで悩む必要がなくなる。いままでもふたりで特に贅沢をしないで暮らしてきた。就職したての安月給でもなんとかふたりでやって行けるだろう。
とりあえずしまってあるリクルートスーツをクリーニングに出せ。就活サイトに登録をして、エントリーシートを作れ。
……どうするのがいいのかわからなくなる。
珠里を背負って生きていくことを考える。いつまでこんな気持ちでいるんだろう。
「今日は疲れてるの?」
「なんで?」
「だって篤志、笑わないから」
笑えない状況にいて、笑わないと指摘されるのは滑稽だった。と同時に彼女の望んでいることを汲み取る。
しあわせとは。
いつか珠里がうたっていた歌を思い出す。
もしも人生に雨が降ったとしても、大事な人に傘をさしかけてあげられる。それがしあわせだというのなら、俺は珠里にずっと傘をさしてあげたい。頭は常に『できること』を探していた。
「確かにね、今日の実験、ハードだったから」
「そうかなぁと思った」
ふふっと珠里は笑う。そう、俺が珠里の笑顔を見たいように、珠里も俺の笑顔が見たいんだ。問題を難しく捉えるのはやめよう。
その日からお通夜のようなさみしい食事の時間が変わった。俺は事細かに学校でのことを話して聞かせ、そうすると珠里は「また学食に行きたいな」と言った。
行けるよ、いつでも。
珠里が靴を履いて眩しい五月の空の下を歩くようになれば。
「今度また一緒に行く? ひさしぶりだよね」
「そうだね、天気のいい日にね。雨の日は気が滅入るから」
「じゃあ晴れた日に、一緒に学校に行こう」
珠里はうれしそうに微笑んだ。
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