第9話 笑顔
通院を繰り返すと、次第に珠里に笑顔が戻ってきた。病院に行く回数も減り、何かを食べると「美味しい」と言うことが増えた。
休日前にはDVD鑑賞会をして、晴れた休日には手をつないで散歩した。
季節が少しづつ変化していくことに彼女は敏感になり、前に行った公園にも何度となく通った。
どれが珠里にとっての正解なのか、それはいつでもわからなかった。それでもできることはなんでもしようと思った。
公園の花壇に咲く夏の花の名前を珠里が覚えてしまうころ、風は涼しくなり始めた。
新しい季節がやってきた。
十月になると夏休みも終わって俺はキリのいいところでバイトを辞めた。結局、無駄に長くいても友人が増えることはなかった。
珠里が辞めてからそこには嫌な感情しかなく、お金のためだけに通っていたから。
就活をしない分、学校での実験はひとより丁寧に行った。精度の高い実験をして、いいデータを取る。それは思っていたより楽しい作業で、希望するゼミの教授にも目をかけてもらえるようになった。
「おかえり」
珠里は台所に立っていた。
それまでも時には難しい顔をして台所に立つことはあった。でもそれとは明確に違った。
背筋が伸びて、瞳は生き生きとしている。なにかの味見をしていた。
「ただいま、なに作ってるの?」
部屋にはいい匂いが漂っていた。珠里はくすくす笑った。俺は内心、穏やかではなかった。突然の変化に対応できなかったからだ。
「ポトフ。夜は涼しいからいいかなぁと思って。すきでしょう?」
「うん。買い物は?」
「行ってきたよ。レシート見る?」
お金に細かい珠里は俺にレシートを見せようと財布を手に持った。でもそんなことじゃなくて、ひとりで買い物に行ける日が来るなんて。
バタン、とドアを閉めて珠里のところに向かう。後ろから強く抱きしめる。そんなのは不自然だということはわかっていた。でも込み上げる衝動がそうさせた。
「ありがとう。すきなんだ、ポトフ」
「やだなぁ、好きなのはポトフ?」
「いや、珠里。珠里がいちばん大切」
わかってるよ、と彼女はやさしく言った。そうして珠里の体に回した手を取ると、彼女はその手にキスをした。
「まだなんでもできるってわけじゃないけど、少しずつやってみるから。だいすき、篤志。この家の子にしてくれてありがとう」
「いいよ、俺が珠里をほしいと思ったんだ」
「いつでも惜しみなく」
「そういうんじゃなくて。珠里が出て行きたいって言い出さなくてよかった」
ぎゅうっと、力いっぱい抱きしめる。食べるようになったとはいえまだ細い体がきしむ。
「篤志、お鍋……」
「ちょっとだけ」
ちょっとだけ甘えさせてほしい。残酷だった時間を忘れさせてほしい。笑顔で包んでほしい。
気づけば俺も孤独だった。
笑わなくなった珠里が俺を愛しているともし信じられなくなっていたら、投げ出していたかもしれない。
「やだ篤志、なんかいつもと立場が逆」
「たまにはいいでしょう?」
「がっつかれてるみたいで、うれしい」
耳をやさしく噛む。珠里のやわらかい髪からいつも通り花の香りが舞う。首筋に、後ろからキスマークをつける。そのまま顔をこっちに向かせて無理な姿勢で唇を奪う。
「どこにも行かないで」
「行かないよ。やだなぁ、他に行くところないって知ってるじゃない」
「そういう意味じゃなくて、俺だけの珠里でいて」
それ以上はもう言葉にできなくて、華奢な肩を押し倒して何もかも自分のものにする。体だけのつながりなら、ここまで待てなかった。自分でも不思議だった、なぜ珠里を見捨てないのか。
珠里はいつの間にかただの彼女じゃなく、この家に欠かせない大切な家族になっていた。そして、いつでも俺の女だ。
ポトフは弱火にしてあったので、野菜はすべて溶けるようにやわらかく煮えた。
また冬がやってきて、朝晩の寒さが厳しい冬晴れだった日、学校から帰ると珠里は笑顔で待っていた。
夕飯を食べてからふたりで、おみやげにコンビニで買ってきたプリンを食べる。珠里はカラメルが苦手で残り三分の一のところで俺に回して、風呂の給湯ボタンを押した。
「そう言えばね、わたし、働くことになったから」
「……早くない?」
絶句した。
快方に向かっていることを素直に喜べばよかったのかもしれない。でもそれより彼女が手元を離れて自立することが、まだ不安だった。
またどこかで傷ついてきたら、と思うと心配だった。
「大丈夫だよ、簡単な仕事だから。日本茶の専門店で働くの」
「接客業? たくさん人のいるところ、平気?」
「ひとりでいるより気が滅入らないと思うから」
それは確かに、と思う。
ひとりで俺の帰りを部屋で待つより、よほど気が紛れるだろう。それなら試しに外で働くのもいいのかもしれない。
「先生もね、少しずつ無理しないで社会復帰するのは賛成してくれてるし、お店にも面接の時に病気のことは話してあるから」
「そっか、そうだよね、先生が言うならそうなのかもしれないよな。楽しく働けないようなら病気を理由に辞めればいいし」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。あのね、上手にお急須でお茶をいれるの。それでお客さんに試飲してもらうの。美味しいって思ってもらえれば買ってもらえる」
「営業じゃん」
「向いてると思わない? 篤志だってわたしの見た目にやられたんでしょう?」
それだけじゃないよ、と苦笑する。
去年の春、彼女に惹かれたのは見た目からかもしれないけど。ここまで流されてきたのは、それ以上のなにかが珠里にはあったからだ。
確かに珠里は『品のあるお嬢さん』に見えるから、お茶を売るのには向いてるかもしれない。お茶を手に、首を傾げて微笑む彼女を想像する。
こういう報告ができるようになってうれしい、と彼女は笑った。
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