第10話 初めて会った時に

 仕事を始めると珠里は日々、楽しそうにその日あったことを報告した。

 わかったのは同僚はオバサンふたりで、ふたりとも珠里を娘のようにかわいがってくれていること。それから、珠里は接客が得意だということ。愚痴をこぼして帰っていく客が多いが、ひとの話を聞くのは楽しいらしいこと。

「それからね、わたし、お茶をいれるセンスがあるって言われちゃった」

 そう言って珠里は照れ隠しに大袈裟に笑った。

「なんかね、お茶にも検定みたいなのがあるらしくて。そういうの目指してみたらって言われちゃった」

 少しふっくらしてきた頬が楽しそうに緩む。もう、以前の珠里とほとんど変わらないと言えそうだった。何よりいつも笑ってるということが素晴らしかった。数ヶ月前にはとても考えられなかった。クリニックに付き添うこともほとんどなくなった。


「毎日、楽しそうでいいじゃない」

「篤志だって楽しそうに学校から帰ってくるじゃない。わたし絶対、篤志の研究に嫉妬する日が来ると思うよ」

「なにそれ、研究は女じゃないでしょう」

「女だってなんだって、わたしから篤志を取り上げたらダメなの。わたし、何も無くなっちゃうもん」

 研究が俺を珠里から取り上げるなんてそれは愚かな考えだ。研究はこの先、仕事になっていくもので俺と珠里の生活のパートナーになるに違いない。それを上手くやれるかと言えば自信はなかったけれど、自分の信じる道を真っ直ぐに歩いてみようと決めていた。


「そうだ、今度、新しい服を買いなよ。仕事に行く時、着ていくでしょう?」

「……贅沢じゃないかなぁ」

「たまには自分へのプレゼントも必要だよ」

 ほしい服があるのか、珠里の目は斜め上の方を見て、考え事をしていた。

 引越して来た時、女の子にしては荷物が少ないと思ったけど、その理由は『倹約』にあった。珠里は荷物が少ない。不必要なものは買わないからだ。服は仕事着なら枚数持っていたけど、普段着は少なかった。クリニックに通う時も毎回同じような服を着回していた。


 以前、珠里と服を見に行った時には上手くいかなかったけれど、今度はきっと自分で欲しい服を選ぶだろう。そして、元気だったころのように「似合うかな? でも贅沢じゃない?」というのを繰り返してきっと買わないので、その時にはこっそり裏で買ってプレゼントしよう。

 珠里が社会復帰をしたことより、何をしても楽しい、という顔をしていることがうれしかった。そして抱きしめずにいられない。

 珠里を手放せないのは俺の方だということを、珠里はわかっていない。


 働き始めてしばらくすると、日曜日、ふたりで共通の休みの日、つまり貴重な休日に無理やり手を引かれる。俺が行きたくない、と言っても聞く耳を持たない。ひとの着る服まで決めて、玄関に靴を用意される。もっとも靴はいつも履いているスニーカー一択だったが。


「いいよ、職場のひとたちがいいひとだってことは話を聞いていればわかるし」

「そうじゃないの、オバサンたちに篤志を紹介するの」

「してどうするんだよ?」

「もう! 自慢の彼なんだからいいじゃない!」

 どの辺が自慢なのかちっともわからない。自分で言うのもなんだけど、かなり平凡だと思う。どちらかと言えば多少、人づきあいが苦手で、それはこれっぽっちも褒められることではないだろう。

 クリスマスに珠里からもらったセーターをほぼ無理やり着せられて、普段はあまりしない腕時計をすることを強要される。……まったくそんなものになんの意味があるんだ?


「ほら、完璧。これで素敵な理系の大学生になったじゃない? ほんと、頭が良くてスマートな感じ」

「なんだよ、それ」

「篤志はこう、視野が狭いからわかんないのよ。わたしとつき合う前もモテたでしょう?」

「モテたっていうか人並みでしょう」

「もう! いいじゃない、聞きたくない、モテ要素のひとつは外見なの! 自分の素材の良さ、ほんとわかってない」

 目が点になる。珠里からそんなこと言われたことがない。

「ねぇ、篤志が外見でわたしをすきになったように、わたしだって篤志の外見も……」

「も?」

「背が高くていいなぁって、初めて会った時に。大きな手のひらも好みだったし」

「言わなかったじゃん?」

「そういうのは言ったら負けなの! ……気がつかないみたいだから言わないつもりだったのに。他の子に誘われてもついて行ったらダメなんだからね」


 ちょっと何も考えられない。

 珠里がそんなふうに自分のことを思ってたなんて考えたこともなかった。だってあれはあの日、勇気を出して声をかけたからこっちを向いてくれたわけで――。

「もしかして、誘った時には少し、俺のこと少しはいいと思ってくれてた?」

 聞く方も恥ずかしい。

「だから、思ってなかったらそんなに簡単にほいほいついて行ったりしないの。嫌いな男となら絶対、アルコールは飲まないし。酔ったら危ないじゃない?」

「危なかったよ」

「そういうこと。信用してないひとの前では飲まないの。……まぁ、あの時は結局、あげちゃったけど」


 沈黙。


 あの日、珠里がそんなことを考えてたなんてちっとも知らなかった。気づきもしなかった。

 これは絶対、顔が赤くなっているパターンだ。珠里だって、恥ずかしいのか目を逸らしている。

 ぺたっと、前から抱きついてくる。

「だからね、大切な人を紹介したいの。それだけ」

 そこまで言われると、もう断れなかった。

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