第7話 自分でいること

 それからの日々は珠里の洋服の件で毎日がバタバタだった。

 いつでも彼女の出勤時間に家にいられるわけではなかったので、話し合って前日の夜にはコーディネートを決めておくことにした。安心して翌朝を迎えるための準備だ。

 ふたりで一緒に服を決めていく。

 それはそれで楽しい作業でもあり、あの服を来ていた時の珠里は……と思い出したり、次はこんな服を買ったらいいんじゃないかと思ったりした。


 こうして見ると、珠里の服は白と紺が圧倒的に多くて、色が足りなかった。仕事を考えるとそれでよかったのかもしれないけれど、なんだか味気なかった。中身が美人であれば、服は味気ないくらいの方が中身を引き立てるということなんだろうか? 確かに珠里は何を着ても様になっていた。女性の服は難しい。

 キャンパスを歩く女の子たちを見ていると、初冬でもカラシ色やレンガ色をはじめとして様々な色が見られた。

 やっぱりもっと華やかな服が似合うんじゃないかと、通り過ぎる女の子たちを見ながら大学の中庭の壁にもたれかかって考える。


 服を決めて寝た翌日でも帰ると部屋中に服が散乱していることがあった。

 俺は知らないふりをしてその服を拾う。

 珠里もなんでもなかったかのように「ただいま」と帰ってくる。そして「ごめんね、散らかしっぱなしで」と目をそらして言った。


 思い切って外に連れ出して手頃な店に入る。白と紺ではない、それでいて仕事に向いている服を探す。他の女性社員の服を思い浮かべる。「これなんかどうかな」と言うと、いつもの口癖の「もったいないから」と言ってなかなか買おうとはしない。

 服が華やかになれば、また気分も変わるんじゃないかと単純に考えた。

 こういうのは押しつけるように買っても着ないだけだろうと思い、根気よく待つ。三件も回る時には珠里の顔にも疲れが見えて、結局何も買わずに帰ることになった。


 たまには、と言ってスタバに入って適当なものをふたつ買う。

 珠里は小さな女の子がするように注意深く、両手でカップを受け取った。

「スタバなんて贅沢じゃなかった?」

「たまにはいいでしょう? スタバでコーヒー飲んでる女の子ってかわいく見えるし」

 本当? と珠里はすぐに食いつく。冗談だよ、と笑う。俺のつまらない冗談に珠里はふわっと花のように笑った。

「贅沢は美味しい?」

「うん、美味しい」

 やけどしないように冷ましながら飲む彼女をかわいいと思いながら、肘をついて眺める。珠里の顔がほころぶ。おしゃべりになって、日常の小さいことや、店の前を通る人たちの感想を言ったりする。このところ、こんなにゆっくりした気持ちになれることはなかった。コーヒーは俺たちにしあわせの魔法をかける。


「いろいろ選んでくれてありがとう。せっかく一緒にいらいろ見てくれたのに時間を無駄にしちゃってごめんね」

「いいんだよ、珠里が楽しめれば。ショッピングってそんなものだろう? それなのに連れ回して疲れちゃったんじゃないの?」

 頬にそっと手をやる。珠里の唇が手に触れる。

「ごめんね。だいすきだよ、篤志」

 そのまま周りの人に気づかれないようにそっと頬にキスをした。珠里はじっと俺を見て、もっと、と言うようにせがんできた。そういうこともあるよな、と唇にもキスをする。

 ふふっと彼女は笑った。


 年末になり、さすがに実家に帰省しないわけにもいかないと思い迷っていた。珠里をひとりにするのは不安だった。ひとりの時に気持ちが混乱してしまったら、誰がそれをほどいてあげられるんだろう? それを察したのか珠里は「わたしも帰省するから」と笑って、それなら一泊で帰るよ、と約束して実家に帰る。

 帰ってしまえばなんということもなくて、兄夫婦と同居している親は「あら、もう帰るの?」という言葉だけで俺を見送った。たまには顔を見せろとうるさいのに、実際そうしてみると呆気なかった。


 珠里も「ただいま」とまた小さな荷物を提げて帰ってきた。

「たった一泊で何も言われなかった?」と聞くと「いいの、いつでも帰れるから」とさみしげに笑った。

 大晦日と元旦、そのたった二日離れていただけなのに、ものすごく長い間離れていたんじゃないかと思わせた。

 珠里が持ち帰ったちょっとしたお節と餅をふたりで食べた。


 少しはストレス解消になればいいと思って思いつく限りのことはしたけれどもそうも上手く事は進まなくて、ある日とうとう、珠里は服を胸に抱きしめて泣き叫んだ。簡単に収まりそうもなかった。

「違うの! これじゃないの。この服じゃダメなの」

「大丈夫だよ、昨日寝る前にふたりで選んだでしょう?」

「違うの……。こんなんじゃ行けない。遅刻しちゃう、急がなくちゃいけない……」

「落ち着いて。何がダメなの?」

 放心した顔で珠里は座り込んだ。涙が頬を滑る。


「きちんとした服じゃないと、自信を持って行けないんだよ」

 指でゆっくり、涙を拭う。抱きしめる。彼女をなぐさめる手段をほかに知らない。

「今日は休もう?」

「そんな無責任なことできないよ!」

「休もう。珠里も知ってるだろう? 休んだ時は代講がいるってことくらい」

「……。わたしが行かなくても済むってこと?」

「今日は休めばいいよ。そうすれば気分も変わるよ」

 そうかもね、と腕の中で彼女はつぶやいた。脱力した体は重く、俺にもたれかかった。全部を受け止めてあげたい。


 知らないうちに時間は次々と流れて、気がつくと春は目の前だった。

 季節が変わればなにかが良くなったのかと言えば、そうはならなかった。


「もう辞めた方がいいと思うよ」

 そう言うと彼女は泣きはらした目で、「でも収入が」と言った。「こういう時のために貯金してきたんだから大丈夫だよ」と言うと「でも、もう少しがんばれば正社員になれるかもしれないし」と答えた。それはありそうにもないことはお互い、口には出さないけどわかっていた。

「わたし、学歴を活かした仕事がしたかったの。でも就活でつまずいちゃって。……これ以上つまずいたらせっかく大学に行ったことがムダになっちゃう」

「ムダとかそういうことじゃなくて、珠里は珠里なんだし少し休んだ方がいいよ。だから」

 何度目かの話をした時に彼女はとうとううなずいた。

 新学期への切り替えをせず、彼女は塾を辞めた。


 新年度になると学校の実習も多くなり、自分も塾に行く回数を減らした。珠里のいない塾は不思議なほど今までとなにも変わらなかった。いつもと同じように、仕事が回っていた。

 俺はアルバイトの中でも『先輩』になり、入ってきたばかりの子に丁寧に仕事を教えた。それも自分に与えられた仕事だったからだ。

 他の仕事に就くことも考えないわけじゃなかった。どっちにしても学校がもう少し忙しくなったら辞めようと思っていたので、生活のために続けることにした。


 三年に進級した。

 早い友だちはもう就活を始める。

 けど自分はそれをしない。すぐに就職する気はない。「大学院に進もう」と、入学する前から決めていた。そのために学校を選んで、わざわざ浪人してまでこの大学に入った。すべてはこの大学で研究するためだ。研究者になりたかった。

 入学した時には理論として覚えたことが目に見える形になる、あるいは予想を裏切る結果を出す。それは魔法のようでなによりも楽しい。

 それでいいのか、と誰かがささやいた。何がいけないんだろう、と心の中の誰かが答えた。それ以上の問答は進まなかった。

 夢に向かって走ることが悪いことだと、その考えはその時、しっくり来なかった。


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