第6話 あの日みたいに

 そんなふうに秋は深まって、暖房が恋しくなる頃、珠里の様子が変わった。

 言葉数が少なくなり、神経質な顔をして仕事へ行く。辛そうだった。


 ある日、午後の授業がなかった俺が珠里の支度を眺めていると、何かがいつもと違った。珠里は焦っていた。まだ時間に余裕があるように思えたけれど下着姿のまま、クローゼットをかき混ぜていた。

「どうしたの?」

「大したことじゃないの。服が決まらないだけなの」

 珠里の服は高価なものではなかったけれど、彼女の魅力を引き立てるには十分なデザインのものばかりだった。


「どの服?」

 立ち上がって一緒にクローゼットをのぞく。狭いクローゼットにプラスチックのチェストを入れたタンスとは呼べない代物から、何着かの服が引きずり出されていた。

「このブラウスを着ようと思ったんだけど、他が決まらないの」

 ああ、と隣にしゃがんで引き出しに手を入れる。

「これがいいんじゃない? この前、これ来てた時、似合うなって思ったんだ」

 珠里は二着の服を重ねて、難しい顔をした。

「確かにこの組み合わせでこの前は着たけど、襟と襟の組み合わせがいまいちじゃないかしら」

「そうかな? 色が珠里によく似合ってるよ」

 今度は重ねた服を自分の体に当てて、鏡を見た。自分と鏡を交互に見る。

「……篤志が言うならそれでいいかな」

「ほら、時間ないよ。化粧もするんでしょう?」

 うん、と言って洗面台に向かう。表情が冴えない。


「俺、今日はないけど送ろうか?」

「いいよ、悪いもの」

「たまにはいいんじゃない、彼氏に送られるのも。もしも珠里が俺を彼氏だと思ってくれるなら、だけどね」

 ぱぁっと顔が明るくなって、いつもの調子が戻ってくる。服一枚でこんなに迷うなんて、女の子は大変だなぁと思いつつ、支度を待つ。自分の支度は上着を羽織るだけだった。化粧をする珠里の背中を見ている。

「念入りだね?」

「……せめて外見だけでもキレイにしていかないと、内側はどうしようもないから」

「何言ってんの? 俺の珠里は中身もキレイだけど」

「篤志だけだよ、そうやって言ってくれるのは」


 現実的な話として、毎日会っている美人に「キレイですよね」と毎日言ってくれるひとはいない。つまりはそういうことだ。珠里は珠里のままで他人から見える容姿はずば抜けてキレイだったけれど、そのことで毎日褒められるということはない。褒めるのは恋人くらいだ。

「自信持っていいよ、俺の珠里は誰よりもキレイだから。外見も、中身も」

「本当に? わたし、おかしな格好していない? 浮いてない?」

「美人だってことを除けば浮いてない」

 すっかり化粧をしたことを忘れてしまったのか、珠里から抱きついてきた。そのままどれくらいじっとしていたんだろう? 家を出なければいけない時間まで背中に手を回して抱きしめていた。

「迎えに行くよ、あの日みたいに」

 髪をそっとよけて、耳の裏にキスをする。そんな小さなことで安心してくれるなら。

「もちろん送るよ」

「ううん、じゃあ迎えに来て。あの日みたいに待ってるから」

 帰りに五目そばを食べようと約束した。


 その日は特別寒くて、珠里と知り合ってから季節が一巡するんだな、と思う。ぐるりと一年が回るのかと思うと、感慨深い。こうやって年を重ねてふたりの仲も、なにも言わなくても例えば「すきだ」という気持ちくらいは疑いなく伝わるようになるんだろうか?

 夕方早い時間なのに、日が落ちる。

 珠里は、騒がしく帰っていく他の職員たちから一歩退いたようにしてうつむくようにいつかの場所に立っていた。


「岩崎さん」

 冗談を言う。

 珠里はハッと顔を上げる。

「……来てくれてありがとう」

 ポケットに手を入れたままの俺の首に手を回すようにして、抱きついてくる。

「迎えに来たよ、うちの子を。さあ、五目そばだろう?」

 うん、と彼女は恥ずかしそうにうなずいて体を離す。周りにいた講師たちはすでにどこかに散ってしまって、暗い裏通りには俺と珠里だけが残されていた。

 店に行って、また誰もいなくて、ふたりでカウンター席に座る。珠里はごくごくと喉を鳴らして水を飲み干した。そしてグラスを置くこともなく話し始めた。

「あの日もこんな気分だったの」

「そう?」

「そう。篤志が迎えに来てくれてうれしかったんだけど、同時にもしもすぐに飽きられちゃったらどうしようかと思ってた、内心」

 そのさみしそうな横顔をじっと見て、自分はこれまでなにを見てきたんだろうと思う。珠里のなにを知っているつもりでいたんだろう? それこそ外見しか見ていなかったのか?


 コトリ、とグラスを置いた彼女の頭をぽん、と軽く叩いてその頭を引き寄せる。

「熱いものでも食べればすぐに気分も変わるよ」

 うん……、と彼女は小さく肯定した。

 その日の彼女はやはり食欲がなかったのか、半分ほど食べたところで無言で丼を回してきた。「もう食べないの?」と聞くと目でうなずいた。「じゃあ遠慮なく」とそのまま食べると、いつもと味はこれっぽっちも変わらなかった。

 すっかりあの日と違ってしまったのは珠里の方で、それはわかっていたことなのに俺は目を背けていた。

 しあわせの足音が遠ざかっていく前に間違いを正して、現実を受け止めるべきだったとあとで思い知ることになる。

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