第5話 どうしようもない
そんなふうに俺たちの生活は大きな波もなく過ぎていった。
その理由のひとつは、ワガママな女に見える珠里がとても従順だったからだ。なにか俺から言うことがあっても、彼女は「そうだね」、「本当にね」と相づちを打ってふたりの仲が混乱するようなことはなかった。
たまにワガママを言うことがあっても、たとえば夕食のおかずのことや、食後のデザートのことで、それくらいは聞いてあげられないこともなかった。
いや、聞いてあげられないワガママは言わなかった。不自然に思わないくらい大人しかった。
一方、職場での珠里は少しずつ様子が変わっていた。
同じ曜日に出勤すると、とりあえず棚の向こうの珠里が気になる。周りは俺たちがつき合っていると知っているはずなのに、奇妙なことに誰もそれを突っ込んでくることがなかった。
棚の向こう側で、珠里はいつも通り背筋を正して仕事をしている。凛とした背中。
しかしその一方でその首はしおれかけた花瓶の中の花のように日増しにうなだれていった。よく見ていると珠里の言う通り、事務的な話以外は珠里には話が回ってこないようだった。見るからに孤独だった。
仕事中でなければ抱きしめてあげることもできるのになぁ、とどうしようもないことを思う。ぎゅっと抱きしめて、背中をさすってやって、髪を撫でてやる。それだけで少しは元気になれると思うのに、間には棚がある。
俺たちの間には、いつだって棚があった。
休みが合う日には気晴らしに公園に散歩に行った。落ち葉がまだ木の枝から降ってこないような時期だった。珠里はカーディガンを着て、長くて量のあるスカートを履いていた。
「空の下はやっぱり気持ちがいいねぇ、気が晴れるね」
緩やかな坂道を下りながら珠里は言った。
「わざわざバスに乗って来た甲斐があったと思わない?」
「思う。えーと、お友だち、なんて人だっけ?」
「小林」
「小林くんに感謝しないとね、こんな素敵なところを教えてくれてありがとうって」
薄く色づき始めた木の葉を眺めながら、彼女はその向こうの空を見ているようだった。ずいぶん元気をなくした空の青が秋を思い起こさせる。珠里が「あ!」と言う。
「ドングリ見つけた! ねぇ、なにか袋ないかなぁ?」
「そんなの持ってないよ。珠里のカバンにはないの?」
「袋かぁ、ないな。まぁいいや、手に集めよう」
ぽん、ぽん、と跳ねるように木の下に行ってはしゃがんでドングリを拾う。時々、「おおー、帽子つきみつけた!」と声を上げた。ドングリは一種類ではないようで、数種類が珠里の手の中に集まる。
「面白かったね」
日が傾いてうすら寒くなったころ、珠里はドングリを手の中からすべて捨てた。特別なドングリもすり傷のあるドングリもすべて。
「せっかく集めたのによかったの?」
「……持って帰ってもどうしようもないし、袋もなかったし、どうしようもなかったんだよ」
「そうかもしれないけど売店でなにか買えば袋をもらえるんじゃないかなぁ? ポケットにいくつか入るんじゃない? 俺のポケットに入れる?」
「いいの。もういっぱい遊んだから。すごく楽しかったよ」と冷たくなってきた片頬に珠里はキスをした。
珠里は『どうしようもないこと』という箱にドングリを入れたらしい。そういうところは俺たちは似ているようで、少し違っているようにも思えた。完璧には重ならない、それがふたりの関係だった。
朝晩の気温差が大きくなる。朝、起きると珠里は窓から外をのぞいて天気を気にした。
「今日は四度下がるって。篤志ももう少し厚着しなくちゃ」
「いいよ、パーカーがあればこの季節ならなんとかなるから」
「風邪ひいたら困るでしょう?」
「大丈夫だよ、一人で寝て治すから」
「……ダメだよ、ひとりなんて」
小さな想像をして悲しくなった珠里を、そっと包む。陽だまりのような温もりを感じる。
「あったかいね、珠里。このまま抱きしめていたい」
「嘘つき、わたしを置いて学校に行くでしょう?」
「行くけどさぁ、そういう気分ってことだよ」
もう、と言って頬をふくらませる。
唇と唇が重なって、口の中で舌と舌が、お互いをつなぎとめようと動き回る。そうして見つけるともう離れないように絡まる。舌先の感覚は敏感で、それだけでもうすべてが欲しくなる。どんどん、エスカレートする。
「あ、篤志、遅刻しちゃうよ」
「うん、もう少しだけ……」
「でも」
珠里が俺の体を引き剥がそうと力を入れる。
「外は寒いし」
珠里はあきらめたようで突っぱねる腕の力を抜いた。キスだけじゃすまなくなる。
「三上が遅刻するなんて珍しいよな」
はは、と軽く笑ってかわす。小林は気にせず話を続ける。
「昨日、公園行ってきたよ」
「散歩にはちょうどよかっただろう?」
「ドングリがたくさん落ちててさぁ」
「ドングリ? お前、子どもかよ」
また薄く笑う。
そう、ドングリ。せっかく集めたのにすべて捨ててしまった。大切なものを拾い集めても、惜しげも無く捨ててしまう珠里を初めてちょっと怖いと思った。ひとつでも思い出の品として持って帰ればよかったのに。
あの時の珠里は無表情だった。
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