第4話 ふたり暮らし

 中華料理を食べたその次の日の夜、珠里は手荷物をひとつ提げてうちに越してきた。

 そして丁寧に「お世話になります」と頭を下げた。「本当に来たの?」という言葉は飲み込んだ。彼女が一緒に生活してくれるというのはこの前までの俺にとっては考えられないことだった。まるで夢の中にいるような。

「今まで住んでたところは?」と聞くと「解約してきちゃった」とうつむいて、早口で彼女は答えた。


 夢が本当に近づいていくというのはこんな感触だったのか? 知らずにいた世界に足を踏み入れる。

 女性経験がまるでないというわけではなかった。でも正直、物事の進む速さに困惑していた。


 一緒に暮らし始めると、珠里は実に家庭的な女だった。最初の日に言われたのは、「昨日の中華料理美味しかったけど、ご飯はできるだけ家で食べようね」。もったいないから、というのが彼女の主張だった。それはもっともだったし、その一方、理想論であったから「そうだね」と答えた。すると珠里は本当に家事を始めた。


 鼻歌を歌いながら料理を作り、ぶつぶつ言いながら狭い部屋を掃除し、晴れた日には笑顔で洗濯を干した。そして、間違ってなければしあわせそうに洗濯物をたたんだ。

「自分のことは自分でやるよ」

 と言っても彼女は俺が学校に行っている間に夕飯の支度以外の家事をほとんどしてしまうので止めようがない。


「あのさぁ、がんばりすぎなくていいよ、珠里だって塾の仕事あるでしょう?」

「好きでやってるだけだから。寄生させていただいてるしね!」

「寄生って言葉が悪くないか? 俺はそんなつもりないし」

「篤志がそう思わなくたってねぇ、世の中ではこういうのを寄生っていうの」


 笑い声を上げながらパソコンを使っていた俺の背中に突進してくる。

「珠里、だから命がいくつあっても足りないって!」

「だってくっつきたかったんだもーん」

 彼女は余裕だ。甘えたがっているのはわかっていた。ひとりが苦手だというのもわかった。よく知らない男と暮らし始めたばかりで、それだけのことでこんなに楽しくなっている彼女を見ていると、つい抱きしめたくなる。


 でもいま、彼女が俺の背中にくっついている。腕を伸ばしてそのやわらかい髪を撫でる。

「毎日、さみしくなくなった?」

「うん、楽しい」

「そっか、それならよかったよ。誘った甲斐があった」

「嘘、最初は冗談だったでしょう?」

 わかってたのか……。わかっていて家に転がり込んできたわけだ。確信犯じゃないか。

「珠里、俺もさみしくないよ」

「やっぱりね」


 パソコンの電源を落として、一組しかない薄い布団に一緒にくるまる。背中を向けた珠里に、うしろから包むように被さる。

「こうやって抱きしめてもらうの、すき。安心するの」

「じゃあ、安心してるうちに寝ちゃいなさい」

 どっちが年上なのかわからない会話をしながら、彼女は夢に落ちる。もう眠っているはずなのに、くふふっと笑う。見ているのがいい夢ならいい。

 こうしていると珠里は、他の女の子とはまったく変わらない、見た目はすまし顔の美人だけど、中身はただの女の子だった。


 しかしそうは言っても俺はどうやったって親からの仕送りで生きているハタチの学生で、勝手にこんなことをしていていいのかと焦りはあった。収入は仕送りと、バイト代、珠里の講師代だった。


 珠里は家事だけではなく、倹約家だった。一緒に服を買いに行っても「似合う? でもどうしよう。もったいないからなぁ」と言って服一枚買うのを渋った。その裏、着るものにずぼらな俺のためにそっと引き出しに新しいTシャツを入れておいてくれる。そういう心遣いがうれしい。

 その倹約ぶりが上手くいくと、月末にお金が余ることがあった。彼女はそれを俺の口座に預金しようと提案した。珠里のお金も入ってるんだよ、と言うと、「いいんだよ。これはなにかがあった時のためのお金だからね。いい、お金は大切なんだからね」と言った。


 コンビニのATMでお金を入金すると、ふりむきざまに珠里が唇を重ねてくる。自然にそれを受け止める。いつの間にかそういう愛情表現がふつうになって、そんなふたりになっていった。自分からしておいて、えへへ、という顔で笑う。女っていうのはつくづくわからないとこんなに近くにいても珠里を遠く感じて、急いで手をつかむ。


 珠里はこんなちょっとした外出の時は鼻歌を歌う。

 その日の歌はback numberだった。――しあわせとは。

 俺にとってのしあわせとは珠里といることで、その毎日は『星が降る夜とまぶしい朝』でできていた。キレイな歌詞だな、と思う。

「篤志!」

「ん?」

「傘はわたしが必ずさしかけるから」

「うん?」

「……なんでもない、歌詞の話。篤志の傘はわたしに持たせてくれればいいの」

「ふぅん」

 あんまり真剣に聴いたことのない歌詞のことで怒られても割に合わない。そしていつだって雨の日には俺が珠里の傘を持ってやるんだから問題ない。しあわせとは、たぶん、そういうことなんだろう。

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