第3話 すきなひとの名前

 目が覚めて、あれは夢だったのかと腕の中を探す。すぐ横に珠里の顔があった。

 いつから起きていたんだろう? 彼女はやさしく微笑んで、窓から差し込む朝の日差しはまぶしかった。


「おはよう」

「……おはよう」

 当然、バツが悪かった。

 彼女から誘ってきたような形だったとは言え、やってしまったのは自分だ。中の温もりをふと思い出す。

 彼女は子どものような目で俺の目をのぞき込んでいた。

「ごめんね、昨日は」

「『仕方なかった』し。いいよ、そのことは。それより……よかったの?」

「誰かに抱きしめられるなんて久しぶりだったの。わたし、強引だった?」

 何も言えずに軽く笑うと、意を察したようで彼女は顔半分布団に隠して、ごめんね、と言った。せめてシャワーくらい浴びてからにすればよかったね、と見当はずれなことも。


 不意に彼女の口が真一文字に結ばれて、なにかを考えているように見えた。次の言葉を待つ。

「わたしね、天涯孤独なのって言ったら笑う? ひとり暮らしなんだけどさみしいから嫌なんだ」

 ひとりで家に帰っていく時のさみしさについて、彼女はぽつりぽつりと語った。


 横で俺はうなずくわけでもなく、その流れていくさみしい話を黙って聞いていた。天涯孤独というのが本当なのかはわからなかった。そういうひとが身近にいたこともないし、彼女の品の良さを見ていると育ちのいいひとだと思えたせいもあった。

 ただ彼女の言う通りなら、職場では誰とも口をきかず、その後ひとりの部屋に帰っていくのはさみしいに違いないと思えた。そして、小さくなって夜道を家に帰る彼女の姿が脳裏をかすめた。


「それじゃあさ、うちの子になる?」

 彼女の小さな耳に口づけてささやいた。単なるジョークのつもりで、深く考えて言ったわけではなかった。俺はただのアルバイトだったし、責任を取れる年齢としではなかった。少なくとも自分ではそう思っていた。


 ただ彼女が愛おしかった。

 手の届かないひとだと思っていたのに、こんなに距離が近い。甘い言葉ひとつくらいあげてもいいんじゃないかと思った。


「いいの? なる。この家にいていいの?」

「ちょっと待ってよ、よく考えて。俺たちまだつき合ってるわけでもないし」

「やることやったじゃん。わたしは三上くんなら大丈夫。なんでかな、わたしだって誰でもいいってわけじゃないの。でも三上くんは大丈夫。一緒にいてほしい。それとも嘘なの?」

 このひとはよく知りもしない男と寝食を共にしようとしている。本気なのか? それともそんなふうに男の家を転々としているのか?

 謎がたくさん頭の中に降ってわいたけど、この人をそばに置けるのは素晴らしいことだと頭の中の誰かがささやいた。


「あ、まずい。俺、学校に行かないと。岩崎さんは予定ないの?」

「今日は仕事以外は予定はないの」

「じゃあさ、ゆっくりしてってかまわないから鍵はポストに……」

 そんなドラマのような使いまわされたセリフを自分の口から話すときが来るとは思ったこともなくて、耳の裏をかく。


「ダメ。迎えに来て」

「無理だよ、今日は実習の日だからその時間に帰れるかわからないよ」

「ならわたしが迎えに行く。学部と学科教えて? その辺の子に聞くから」

 確かに珠里のような容姿の女を案内したいやつはたくさんいるだろう。大学には警備員がいるけれど、それでも広いキャンパスの中、夜は危なかった。何件か事件も起きていた。夜のキャンパスを歩くならひとりにならないよう言われていた。キレイな女性ならなおさら。


「わかった。塾の入り口まで迎えに行くよ」

「やったー! 約束ね」

 不意に彼女が俺の胸に飛び込んでくる。わっと思って転ぶのを堪えて抱きかかえる。ぎゅっと、胸にしがみついてくる。

「待ってるから、必ず迎えに来てね」

 守れるかわからない約束に、うんとうなずいてしまった。もう戻れない。自分の家の鍵を、自分で閉めないで出かけるのは不思議な気持ちだった。


 約束の時間に遅れそうになって、駅向こうの塾を目指して走る。

 あのひとは本当に待っているだろうか? 今日は一日、なにも変わったことはなかった。あのキレイなひとを抱いたのは夢だったんじゃないか? 手の中に残っている温もりもすべて、まぼろしのように思える。息を切って走った。


 職員の出入口は駅前の交差点に面した表通りにはなく、ビルの脇を一本入ったところにあった。そんな暗がりの中に彼女を長い時間、待たせるわけにいかない。半信半疑だったが、俺の大事なひとであることに変わりがなかった。

 その脇道から見覚えのあるアルバイトの学生たちがどっと出てきて、そのあとに出てくる講師たちの姿が見えた。よかった、間に合った。俺はとりあえず息を整えた。


「三上くん!」

 珠里は出入口のすぐ脇に、ほっそりとしたワンピースを着て立っていた。俺の姿を見つけると、小走りに近寄ってくる。

「ごめん、ギリギリになっちゃって。先に来られればよかったんだけど」

「来てくれたからいいの。うれしい」

「だって岩崎さんが家の鍵持ってるでしょう? 無いと困るし」

「……鍵を迎えに来たの?」

 周囲から好奇心のこもった目を感じる。みんな何事もない顔をして成り行きを見守っている。その視線を感じながら言葉を口にするのは勇気が必要だった。


「いや、うちの子を迎えに」

 珠里が満足そうに微笑むと、周りにいた講師たちもなんでもない顔をして帰っていった。俺たちは手をつないでゆっくり歩き出した。


「ご飯、食べて行こうか?」

「もう遅いよ?」

「でもうちにもなにもないしさ、せっかく一緒に帰るのにコンビニ弁当もなんだし」

 大学前の通りに、遅くまでやっている中華料理店があった。のれんをくぐると他に客はなく、店主が「いらっしゃい」と年季の入った声で迎えてくれる。

 ガラガラに空いた店のカウンターにふたりで座る。


 珠里は顔に似合わず五目そばをガッツリ食べた。

「ねぇ、おいしいね、ここ。よく来るの?」

 なんの洒落っ気もないグラスに注がれた冷たい水を、彼女はごくごく飲んだ。

「学食の方が安いからたまにね。そうだ、今度、学食、行こうか?」

「え、わたしなんかが行っても平気?」

「大丈夫だよ、学生に見えればいいんだ。二十三の学生はたくさんいるしね」

「あ、女性に年齢としのこと言ったらいけないんだよ」

 ごめん、とふざけて謝った。珠里もふざけてふくれる。お互いに我慢ができなくなって、吹き出してしまう。


 彼女を気だるいと思ったのは誰だ? こんなにも生き生きしている。笑うと顔が少し幼く見えて、本当に年上なのか疑わしくなる。彼女のどんな表情も見逃せなくて、まばたきする間も惜しい。


「珠里だよ。珠里って呼んで。ね、篤志」

「名前?」

「好きな人の名前くらい知ってるよ」

 彼女は笑ったけれど、今日、職場の名簿で確かめたに違いない。だって昨日までは彼女にとって俺はいないのと同様だっただろうから。それでも名前を呼んでくれたことがうれしかった。


「ねぇ、食べ終わったし早く帰ろう? ふたりきりになりたくなっちゃった」

 さっさと席を立った珠里に腕を引かれる。思ったよりせっかちだ。そんなに急がなくてもなにも逃げないというのに。

「今日は払うね。昨日、結局、おごらせちゃったから」

「いや、いいですよ。せめて自分のものは自分で」

「ダメ。お金は大切なんだよ」

 そう言うと、財布を持って会計に行ってしまった。珠里のリアルな像がどんどんできあがっていって、そしてそれはイヤなものではなかった。

 くるくると変わる表情と、忙しないおしゃべり。そんなものが珠里を作っていた。


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