第2話 極上の
「三上くんは駅の向こうの大学でしょう? あの塾の人ってほとんどあの大学出身のひとなのよ。それでわたしはそれよりひとランク下の大学出身なの」
「いやぁ、考えすぎじゃないですか? 関係ないでしょう、そんなことなんて。採用されたわけだし」
珠里の大学は聞いてみると有名な女子大だった。しかし考えてみると確かにアルバイトの学生も、みんな俺と同じ大学だった。たまたま塾と学校が近いからだと思っていたけれど、考えてみれば偏った採用だ。
「それでね、わたし、契約社員だってこともあるんだけど、話の輪にも入れないわけ」
「でも俺だって一浪だし」
「『岩崎くんはあの話、知ってるかなぁ? ああ、キミ、大学違うんだっけ、悪かったね』って感じ」
珠里は枝豆を指で弄びながら、次に言うことを考えているようだった。酒飲みたちのバカ騒ぎの中で、俺たちふたりは良くない沈黙の中にいた。次になにを言われるのか妙に緊張して身動きが取れない。ぽってりしたその唇がゆっくり動く。
「三上くんはあれね。『社会的な孤独』をまだ知らないんだ。いるのにいないように扱われるのってけっこう堪えるものよ」
今度は俺が黙る番だった。なぜなら彼女の目は真っ直ぐに俺の目を捉えていたからだ。その奥の俺の考えさえ見通しているかのように。
彼女はなにも言わずグラスに残った液体をぐっと飲み干して、二杯目を店員に頼んだ。ペースが速い。俺のジョッキにはまだ半分ビールが残っていた。
酒が回ってきたのか彼女は饒舌になり、いろんなことを話し出した。話し始めると表情がくるくると変わって、その頬はほんのり染まっていった。
「三上くんはハタチなのか、若いね」
「いや、一浪してるし」
「そんなの関係ないじゃん。わたしなんかもう二十三だし」
ぐいっと彼女はグラスを傾ける。その度に白い喉元が目に入る。ジントニックってわりと強くないのかなと思う。グラスの下には結露した滴の水たまりができていた。時折、彼女がそれを気にしてテーブルをおしぼりで拭く。
グラスの中の氷が揺れる。その音は喧騒に消されて聞こえない。彼女は「すみませーん」と言って、もう一杯注文した。
「今年で二十四になっちゃう。いいなぁ、若いって。あれ、でもわたし、若いころにいいことあったかな?」
「岩崎さんはモテたんじゃないですか?」
「えー? どうしてそう思うの?」
「いや、あの、美人だし」
彼女はきょとんとした後、俺を指さして大きな声をあげて笑い、大いにむせた。
「ないって。わたし全然、モテなかったもん。女子大だから合コンとかやっぱりあるんだけど、友だちはみんな『お持ち帰り』されていくのに、わたしはちっとも声がかからなかったもん」
「それは、男の立場から言わせてもらうとつまり声をかけにくいからだと……」
「……そうなの?」
「美人すぎて声かけにくいって言うか、今日だってすごく勇気がいったし」
「勇気出して誘ってくれたんだ? それはうれしいかも。でもわたし、そんなに価値ある女じゃないわ」
そう言ってにやにや笑う彼女は上機嫌だった。
――このひと、本当は全然飲まないんだ。
会計をして酔いつぶれた彼女を半ば背負うようにして歩かせる。かろうじて歩けるけれど、送らないとダメかもしれない。彼女の髪からふわっと花のような香りがした。
とにかく家に帰さなくちゃいけない。知らなかったとは言え、飲ませてしまった責任もある。
「家はどこですか?」
「……家?」
「送りますから。ひとりじゃ歩けないでしょう?」
「家には帰らないから」
「帰らないって」
困ったぞ、家がわからなければ送っていくことはできない。電車ではおろか、タクシーだって無理だ。だからと言ってここに放っていくわけにもいかない。そして、連れて帰ったりしたら厄介なことになるに違いない。
俺はそれを『仕方のないこと』という箱にしまうことにした。彼女の様子ではそうするより他はなかった。
「じゃあ、俺の家に連れて行きますけどいいですか? 変なこととかしないんで」
「いいの?」
がばっと起こした彼女の頭に驚く。なんだ、まだこんなに動けるんじゃないか? これなら家まで帰れたんじゃないのか?
「うれしい! 三上くんだいすき!」
どう返答したらいいのか困る。これは泊めてあげることに対しての言葉であって、俺自身に対するものではない。勘違いしたらいけない。珠里のやわらかい髪が触れる。さらさらとくすぐったい。
彼女はふざけて頭を引き寄せて頬にキスした。
さいわいアパートはそれほど遠くなかったし、珠里も思っていたよりは歩けるようだった。それでもたまに足がよろけて、一緒に転びそうになる。
初夏の夜風がむっとした湿気を運ぶ。その中を、ちょっと前までは考えられなかったくらい密接に俺たちは歩いた。一歩住宅地に入ると、闇が深かった。
なんとかアパートの階段を上がって二階まで行くと、鍵を開けるため彼女をそっと下ろす。ふらついてはいたけれどちゃんと立っていた。
「キレイな部屋じゃないですよ」
「ありがとう。大丈夫」
ドアが閉まるか閉まらないかというところだった。彼女の香りが俺を包んで、唇が触れる。そのまま二度、三度とそれは止まらず敷きっぱなしの布団の上に倒れ込む。反射的に彼女をかばうように抱きしめる。
そのまま絡まって、彼女の白い腕が首に回される。なにもしないという方がもはや不健全で、あわてて彼女を貪る。さっきから気になっていた首筋に唇を這わせる。こんなに酔っていても彼女は酒くささより彼女の放つ香りの方が勝る。花の中を泳ぐ。
それからの彼女は犯されているかのように大人しく、時々もらす吐息と細い声を除けば横にすると目を閉じる人形のようだった。それはそうだ、あれだけ飲めば自分から動いたりできないだろう。
その顔にかかる髪を何度もくり返しかきあげて、ここにいるのが恋しい
「三上くん、気持ちいい。極上の波に乗ってるみたい。サーフィンはしたことないんだけど」
その夜、彼女が口にしたのはそれだけだった。
事が終わると疲れてしまったのか、なにかを落としてきたような無邪気な顔で、珠里は眠りに落ちた。
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