第26話 鳥籠を壊して
日々は瞬く間に過ぎて、哲朗さんは毎日わたしの顔を見るためだけに店にやって来た。そんな彼にわたしはにっこり笑って見せた。気持ちは変わっていませんと。
「お待たせしました」
事前にラインで約束して、5階でパスタを食べる。哲朗さんは先に来ていて、席でわたしを待っていた。
「僕もいま来たばかりですよ」
するりと向かい側の席に座る。
哲朗さんの提案で、仕事は今週いっぱいで辞めることになっていた。突然だったけど、先日のことがあったのですぐにOKが出た。
哲朗さんは仕事に出るより、家にいてほしいと言った。まだ婚約したわけじゃないから突っぱねることもできたけれど、きっと貞淑な妻が欲しいんだろうと思った。
それに働いていたら、篤志が来てしまうかもしれない。会ってしまうわけにはいかない。それじゃ家を出る意味がない。
でもきっといつか、わたしの気持ちに気がついてくれる時が来る。一緒にいたら夢にたどり着くまで遠回りしたに違いないことを。
「珠里さんはトマトのですよね。僕もそれを食べたいなぁ。歯を磨けば大丈夫だったりしないかな」
「大人しくニンニクの入ってないものを食べてくださいね。休みの日に来ればいいじゃないですか」
哲朗さんはなにも言わずにメニューから顔を上げた。そうしてわたしの目の奥までしっかりのぞき込んだ。
「どこまで本気ですか?」
「全部。これからわたしの毎日はあなたのものになるわけですから」
「どこまでが本当のことなのか信じられなくて。これからもこうやってご飯を一緒に食べる権利が持てるってことなのかな」
そうですよ、と言ってわたしは声に出して笑った。そうですよ、約束したじゃないですか。あなたのところに行くんです。
金曜日がやって来た。
これからなのに、疲れてしまって壁にもたれかかって座り込む。
荷物は作った。
冷蔵庫の中に、数日分の食事を用意した。ご飯も冷凍した。洗濯物をたたんでいるところだった。
「ただいま」
「おかえり。早かったね」
「うん、上手くいって。明日は遅くなるかも」
そう、と膝に置いた洗濯物をしまう。荷物を下ろした篤志に声をかける。
「……あのね、実は結婚を前提につき合ってほしいって言ってくれてるひとがいて」
「うん、それで。どうせ断るんでしょう? いちいち報告しなくてもいいよ、珠里くらいキレイならそういう話も」
「ううん、お受けしたの」
シャワーを浴びるために用意をしていた篤志は振り返ってわたしを鋭く見た。
「なんで? 冗談言うなよ、趣味悪い」
「本当のことだもん。わたし、出て行くって決めたの」
「なんでだよ。今朝までふつうだったのに、どうしていきなりそうなるんだよ。なにがいけないの? 俺、なにか間違った? 珠里の気に入らないとこは直すからさ、なんでも言ってよ」
唇をきゅっと噛む。篤志が篤志でいてくれればそれでいい。だから。
「結婚の約束? ……やっぱり結婚したかったんじゃないの? 早く言えよ、就活ならいまからすぐにでも始める。卒業するまで待ってくれたら結婚だってできないわけじゃないよ」
「違うよ、わたしが結婚を決めたひとは仕事のできるひとで、収入も仕事も安定していて、住んでるところはあの駅前のタワーマンションの高層階なんだよ。いままでのわたしからしたらすごい玉の輿じゃない? やさしくて、わたしをすごくすきでいてくれて、頼りになるひとなの。大人のひとなの」
「……俺じゃ役不足だってことか。病気のことはちゃんと話したの?」
「まだ。でもきっと良くなるよ」
離れて座っていたところから、長い腕が伸びてくる。されるがままに抱きしめられる。いつもと同じ、やさしく髪を撫でられる。吐息が頬をかすめる。考えごとをするように彼は黙り込む。
「一生懸命、ちゃんと就職先探すよ。俺の本当の家族になってよ。珠里のいない人生なんて考えられないんだ。誰のものにもならないで。一生をちょうだい」
「ダメだよ。……気持ちはうれしいんだけどわたしは篤志から研究を取り上げちゃうから。これからはいちばんすきなことをして。応援してる」
俺じゃダメか、と耳のすぐ脇で言葉は落ちた。今度はわたしが彼の髪を撫でた。少し伸び過ぎた前髪、嫌いじゃなかったよ、そんなところも。
翌朝、目が覚めると篤志はもう出かけた後だった。朝食を食べた形跡もなくて急いで学校に行ったんだな、と思う。
まだ篤志の温もりが残っている気がして、脱ぎ捨ててあったパジャマ代わりのTシャツを抱きしめる。涙が嘘みたいに流れてきて、自分の手で全部終わらせてしまったことを思い知る。
二年前の今頃、わたしはこの部屋に転がり込んできた。世の中を上手く渡れないみじめな気持ちを抱えたわたしに「ここにいていいよ」って手を差し伸べてくれたのは篤志ひとりだったのに。
まだ今ならなかったことにできるかもしれない。
ふと、そんな悪い考えが頭をよぎる。
このまま終わりたくない。離れたくない――。
ここに来た時と同じように荷物を持って、わたしは玄関で頭を下げた。
なにに頭を下げたのか、いまもわからない。
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