第3章 青い鳥はどこにでもいる(珠里)

第27話 なにも知らない

 足元に行ってみると上が見えないくらい大きなその建物は、見上げていても首が痛くなるだけだった。入り口まで行って、教えられた部屋番号を入力する。すぐに哲朗さんの声がする。

「少し待っててくださいね」

 言葉通り、哲朗さんは間もなく現れてわたしの荷物を持ってくれた。知ってる人のようで知らない人のような気がする。これからはこの人とふたりきりなのだと思うと、胸の中には不安が広がった。

「そう言えば聞いてなかったんですけど、高いところは大丈夫ですか?」

「あんまり行ったことがないからなんとも言えないけど、一緒にいてくれるんですよね?」

「いますよ。じゃあ僕が仕事でいない時には下をのぞき込まないように」

 その答えはわたしを笑わせた。不安に満ちる心がパッと明るくなる。

 彼はユーモアのセンスもあるひとだった。


「こっちがリビングです」

 通された部屋には大きな窓があり、採光は十分だった。眼下にはミニチュアのような街並みが広がり、その贅沢な眺めが装飾であるかのように、部屋には無駄なものが一切なかった。

 家には絶対置けなかったサイズのテレビとダークブラウンのカウチソファ。

「コーヒーでも」

 わたしが、と腰を浮かせたところで止められる。確かに勝手のわからない台所ではなにもできない。あとでよく教えてもらう必要がある。

 ふたり分のコーヒーを持って哲朗さんが隣に座る。考えてみたら、並んで座るのは初めてだったような気がする。不思議な気持ちになる。

「昨日はよく眠れましたか? 目が腫れてますよ」

「……ごめんなさい、みっともない顔で」

「いいんです、疲れてるんじゃないですか? でもこれからはみっともない顔も全部、僕のものですから。コーヒー飲んだら、部屋に案内しましょう」


 その部屋も壁いっぱいに窓ガラスが広がっていた。哲朗さんの言う通り、真下は見下ろしたくないかもと思う。壁のほとんどが窓だ。

「この部屋はそれほど広くなくて申し訳ないんですけど、空気のいい日は海が見えるんですよ。わかるかな、あの方向」

 哲朗さんの指さした方向には確かにそれらしいものが見えた。ゆらゆら陽炎のように広がっているのが海なんだろう。周りを、ミニチュアというよりもはや点のような様々な建物が囲んでいた。

「ちょうどゆったりした湾になっているんですよ。夜は湾を彩る明かりや、漁船の灯火が見えてキレイですよ」

 この窓の下にたくさんの人の営みがあるのだと思うと不思議だった。まるで天国に向かって建てたバベルの塔の住人になったかのようだった。

「ベッドとかリネンとか、用意してもらっちゃったんじゃないですか? お金、かかったんじゃ」

「いや、もともと客間にしようと思っていたからそれはいいんです。それよりお気に召しましたか? 僕は本当にセンスないんで」


 部屋の中はダークブラウンを貴重にしたシンプルなデザインで統一され、唯一枕元に置かれた小花柄のクッションが異彩を放っていた。

 そのクッション以外はまるで皮肉なことにクリニックを思わせる内装だった。シンプルで、飽きのこない。

「ありがとうございます。クッションがかわいいですね」

「よく考えてみたら一緒に見に行ってもよかったんですよね。カタログ通販だってあることだし。リビングも男のひとり暮らしで殺風景ですし、今度、IKEAにでも行きましょうか?」

「IKEAは楽しそうだけど、わたしはいまのままでも十分ですよ。ごちゃごちゃしてるより暮らしやすいと思います」

 そうですか、と彼は照れたように笑った。


 本当にそうだ。

 勲章のように高そうなグラスや陶器なんかが飾られている部屋じゃなくてよかった。わたしにそぐわない。

「ご飯はどうしましょう?」

「お昼は外へ行きましょうか。なにか食べたいものは?」

「……麺類なら」

 哲朗さんはくくっと笑った。わたしが無類の麺類好きだと気がついてしまったのかもしれない。

 それともスパゲッティばかり食べている変な女だと思ったのかもしれない。

「せっかくですならたまには蕎麦なんかどうでしょう? 引っ越し蕎麦」

「そうですね、引っ越しそばなんて考えてなかったです。外は少し暑かったし、ざるそば、いいですね」

「やっと笑いましたね? じゃあ決まりだ。支度ができたらリビングへ」


 バタン、とドアは閉められた。ひとりになると不思議なことに部屋が感じられた。自分が箱の中に閉じ込められてしまったという錯覚に陥る。

 とりあえずカバンの中からここに来る前に買ってきた水のペットボトルを出して、安定剤を一錠飲む。これを飲む度に思い知らされる。『わたしは壊れている』。

 真新しいベッドに横たわる。スカートのしわも気にせず。リネンからはわたしの使う柔軟剤と違う香りがした。

 いまごろ、篤志は学校で、どんな気持ちで……。学校にいる間はわたしを思い出さないでくれたらいいのに、と自分勝手なことを思う。研究に没頭して、わたしのことなんか忘れてくれたらいいのに。お願い、忘れて。そのために出てきたのだから。


 目を閉じて次に開くと、窓の外はやわらかい夕闇に包まれていた。

 あれ、なんだっけ? ああ、お蕎麦。

「哲朗さん、ごめんなさい! お昼は食べましたか?」

「ようやく起きましたか。お疲れだったんでしょう。あんまり部屋から出てこないので、申し訳ないとは思ったんですけど部屋をのぞかせてもらいました。よく眠っていて」

 にっこり、彼は笑った。

 どこにも嫌味のない笑顔で、大人の余裕ってこういうものなのかな、と思わされる。

 それにしても食事を忘れるなんて。

「僕は適当に食べたんですよ。珠里さんはお腹、空きませんか?」

「お夕食の支度を」

「心配ないです。うちには家政婦が通っていて、今夜の料理はできていますよ。本当は特別な日だからどこか有名店に予約でもしようかと思ったんですけど、梅さんに、そういう日こそ家でゆっくりするように怒られましてね」

「梅さん?」

「うちの家政婦です。僕が子供の頃からずっとお世話になっているんです。彼女には逆らえなくて」

 そのひとが知っている子供の頃の哲朗さんは、さっぱり想像がつかなかった。どんな子供で、なにを考えて大人になったのか。いまの彼からはなにも伝わってこなかった。


「では用意しますから、珠里さんは眠気が覚めるまでゆっくりなさっててください」

「いえ、用意はわたしが」

「いやいや、今日は僕がホストですから」

 ひとり暮らしには不似合いな大型冷蔵庫に、蛍光ピンクの付箋が貼られていた。それを指でピッとはがした。

「これの通りにすればいいんですよね。哲朗さんは食器を出す係で」

「梅さんに怒られるな。料理は何になってます?」

「ローストビーフです」

 冷蔵庫にはジップロックにローストビーフと、コンテナにマッシュポテトとグレービーソースが用意されていた。

「ワインを選びましょう」

 ローストビーフにワイン。そんなものはクリスマスだけのごちそうだ。価値観の違いにくらくらする。とりあえず、なにか緑色のものを添えようと、野菜室をのぞいた。


 ワインはロゼのシャンパンだった。

 細長いグラスに一杯飲むと、いつも通りふわふわした気持ちになって、なにもかもがわたしを許してくれているような気がした。頬が上気する。

「お酒に弱いならあらかじめ言ってください」

 足取りは怪しくなり、わたしは思い切り背中からベッドに倒れ込んだ。わたしを支えていた哲朗さんが一緒に倒れ込んで、大きな声をあげる。

「危ないですよ」

「大丈夫。これがわたしとつき合うってことです。いつも油断しないで」

 被さるような形の彼の首に腕を回して、瞳に力を込める。

「……危ないですよ。どうなっても知りませんよ?」

 いいんです、もうどうなっても。

 彼は紳士的にキスだけをして部屋を出て行った。酔いが回った頭の奥がズキズキと痛んで、ペットボトルに残っていた水を飲み干した。

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