第48話 しまっておきたい
毎日をそんなふうに、カレンダーを黒く塗りつぶしていくみたいに過ごしていた。
もちろん家にいる日もあって、そんな日は図書館の本を壁に寄りかかって読んだ。
世の中には実にたくさんの本があって、例えばアメリカの新興宗教問題の本や、ネグレクトで育った子供の物語や、脳をスライスして保存している研究所の本、起こったことを連続して記憶しておくのが難しいひとの本など、いままで読んでいた文芸書以外にもたくさんの本があった。
わたしは数日に一度、借りてきた本を読んでしまうとエコバッグを持って返却に行って、また違う本を借りてきた。
読んでいる間はひとりであることを忘れられると発見して、ふと思う。こういうのが先生の言うところの『楽しいこと』なのかもしれないと。
その日は数学史上最大の難問にいかにして数学者たちが挑んだのか、というドキュメントを読んでいた。もちろん文字ばかり入った数式は無視した。わたしがぼんやり過ごしている日常の裏側で、こんなエキサイティングなことが行われているなんて考えたこともなかった。
帰宅ラッシュを過ぎた学校前のドトールはひともまばらで、静かな音楽だけが店内を満たしていた。
だからわたしは気づかなかった。
「あの」と声をかけられているのは自分だった。
顔を上げるとそこにはメガネとショートカットが特徴的なサコがいて、上からわたしをにらみつけていた。わたしに対して憎悪を抱いてるんだな、ということが一目でわかった。
座れば、というより早く、サコはわたしの対面のイスに座った。店内は変わらず静けさに満ちていた。篤志が今日は早めに終わると言っていた約束の時間にはまだ余裕があった。
「あの、話してもいいですか?」
サコは彼女特有の甲高い声でそう言った。ちょっと、その高い周波数が耳に障る。
「どうぞ」
彼女の声から自分を守るようにコーヒーを一口飲んで気を落ち着ける。どうしよう、こんなに強いプレッシャーのかかる場で普通にしてられる自信がない。
「あっちゃんが全然、話を聞いてくれないんですけど」
それはそうだよ、別れ話をしたわけだし。そう思うと畳みかけるように彼女はまた声のトーンを上げた。
「おかしくないですか? わたしはまだ『別れる』って言ってないのに、ランチは一緒に行ってくれない、話があるって言えば『悪いけど』って言われて、いままでは良かったのにあっちゃんの部屋には行ったらいけないって」
「……来てもわたしがいるだけだよ」
「それがおかしいことでしょう? あなたがいるからあっちゃんは変わっちゃった。わたしはあっちゃんの『彼女』なのに。――あなたがわたしとあっちゃんの間に割り込むから」
わたしはまだテーブルに開いたままだった本を、まず片付けることにした。
「フェルマーの最終定理? わかって読んでるんですか?」
サコはその時、明らかにわたしをバカにした。要するに上から目線ってやつだ。五つも下の女の子にバカ呼ばわりされるのは我慢ならなかった。
でもその一方で、やっぱりわたしはバカなんだ、と膝を抱えるわたしがいた。
引き裂かれていく、わたしが。
「サコ、なにやってんの? 珠里、顔色悪い。薬は?」
「カバンの中」
ごそごそと薬を探すけれど、なぜか誰かが邪魔をしているかのように薬はなかなか出てこない。
「少し早めに終わってよかった。まさかこんなことになってると思わなかったよ」
篤志はいつも通り、わたしのために息を弾ませていた。彼はかばうようにわたしの肩を後ろからやさしくつかんだ。
「だってあっちゃんがひどいんじゃない! 岩崎さんがいるからもう家に来ちゃいけないとか、岩崎さんは一緒に帰ってあげないと家に帰れないとか。ひとりで家に帰れないとかわけがわからない。ウサギかなにかなの?」
サコの声は耳に刺さるくらい、トーンが上がっていた。
「とりあえずここを出よう。店に迷惑かけるから」
いつの間にか、篤志はすっかり頼もしい大人の男になっていて、ほのかな感動を覚える。
研究ばかり追いかけて、まだまだ子供のようなところが大きいと思っていたのに。それはわたしの思い違いだったのかもしれない。
「珠里、立てる?」
わたしは篤志に手を伸ばす。屈んだ彼の首に手を回す。自然、抱き合うような形になる。
「バカみたい! あなたって本当にバカみたい! わたしより、あっちゃんよりずっと年上なのに、弱々しい顔しないでよ!」
サコはそれだけ叫ぶとツカツカと歩いて店を出た。はー、と彼は大きくため息をついて、さっきまでサコが座ってた席に腰を下ろした。
「大丈夫? 唇が紫色になってる」
「そうなの? 自分からは見えないから……」
「出ようか? それとも落ち着くまでここにいる?」
「……もう少し」
ぽろぽろと涙がこぼれてきて、サコの言う通り、わたしはバカみたいだと思う。
篤志はもうわたしのものなのに、彼の心はわたしにあるのに、こんな小さなことでこんなに動揺するなんて。
向かい側の席から篤志がわたしの頭を撫でる。
さっきまで集まっていたほかの客の視線が、引き潮のように引いていくのを感じる。
「ごめん。全部、俺の責任だから」
「サコと、学校で話したりするんだね?」
聞いても仕方のないことを聞いてしまう。そういうところがバカな女だっていうのに。
「はっきりさせるためには口をきかないわけにはいかないよ」
うん、そうだね、と小さく同意する。
でも篤志のせいじゃない。わたしが自分から出て行ったのが悪いんだ。あの時離れてしまったのに帰ってくるなんて虫が良すぎる。サコが怒るのも無理はない。
「帰れる?」
うなずく。トレイは篤志が片付けてくれて、わたしは店を出た。
さっきまで平気だった人波が、騒音となって耳の奥にこだまする。
「早く帰ろう」
篤志が少し強引に手を引く。がんばって足を動かす。
「サコが部屋に来るってきかないから、珠里と待ち合わせてるからダメなんだって言っちゃったんだ。間違いだったよ」
「いいの。サコの気持ちもわかるし。わたしだって篤志の『前の女』が現れて、篤志は自分のものだって言われたら腹が立つし……そんなの認められない」
「珠里、俺、そんなにモテないから嫉妬はいらないと思うよ。それなら俺の方がよっぽど。病気のことがなければ部屋の鍵を閉めてしまっておきたいくらいだよ。また別の男に連れ去られないように」
「どこにも行かないよ」
小さくそう言うと、篤志は「行かないで」と言った。信号待ちする交差点で、わたしは彼に唇をせがんだ。ちょっと困った顔をして、篤志は軽くわたしにキスをした。
でもそれで十分だった。薬より篤志の気持ちの方がずっと効くんだってこと、篤志は気がついてない。
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