第49話 しあわせになるためのお金
その日もドトールで本を読んでいた。
『フェルマーの最終定理』以降、バカなわたしはそういう賢そうな本を読むのをやめた。
恋愛小説を読んでいた。桜庭一樹さんの『私の男』、狂おしいほどの恋、または愛なんてなかなかできないなぁと、インモラルな物語の世界に浸る。
はぁ、とため息が出る。密度の濃い物語はわたしの肺に重い空気を送り込む。コーヒーを飲んで息を抜く。
「珠里」
やさしい声に振り向くと、いつも通り、息を弾ませた篤志がやって来た。わたしは喜びを隠せない。目と目が合うと、どちらからともなく唇を寄せる。篤志の肩に、軽く腕を回す。
おでことおでこがコツンと当たって「待った?」といつも通り彼はわたしに聞いた。しあわせで心が満たされる。コーヒーの芳香が漂うように、しあわせもわたしたちの周りに漂うよう。
「帰る? もう少しここでゆっくりする?」
「帰りたい。早くふたりきりになりたくなっちゃった」
そうだね、と彼は言ってわたしのトレイを片付けた。本をパタンと閉じて、カバンにしまう。
外に出ると店内の冷気が嘘のように蒸し暑い。肌に湿気が張り付く。
「なにをいつも熱心に読んでるの? 前はたまに電子書籍読むくらいだったでしょう?」
「いろいろ。いまは恋愛小説。世の中にはね、たくさんのいろいろな本があるの。すっごくたくさん。図書館には本がぎゅっと整頓されて並べられてるの。静かで安心する」
「でもさ、本て重くない?」
「この重さがいいの。それだけの物語が詰まってるってことだよ。それにね、電子書籍はお金がかかるけど、図書館はタダで本を無尽蔵に貸してくれるんだよ。あの図書館、すごいよね。作ってる時も大きな建物だなぁって思ったけど、入ってみると本の数が半端ないの」
篤志はわたしのくだらない話を茶化さずに聞いてくれた。それでちょっと恥ずかしくなる。わたしは少しうつむきがちに街灯が照らす舗道を歩いた。蒸し暑い空気の中に夏草がむっと匂った気がした。
「珠里」
呼ばれて目を上げると、篤志がわたしを見て微笑んでいた。彼の笑顔に吸い込まれるように瞳を閉じた……。
もう、いまさらなんだけど、こんなところで篤志からキスを求められるなんて思わなかったなぁ。人通りがいくら少ないと言ってもそれこそ『公の場』だ。
甘い気持ちが喉元にせり上がってきて、唇が離れるとため息がもれる。ため息にも種類がたくさんあることを学ぶ。
「早く帰ろう」
どちらからともなく、足が家に向かう。
「ねえ!」
後ろから大きな声で呼び止められてギョッとする。わたしも篤志も同時に振り返った。
「なんなの? 人前で普通、する? さっきドトールであんな、ドラマみたいなキスしちゃって。ここは日本でしょう? いまだって道の真ん中だし、こんなところでする? あっちゃんをこんなふうにしちゃったのはあなたでしょう! 返してよ、わたしのあっちゃんはこんなんじゃない。もっと、真面目で、ストイックで。……こんなふうに求められたことなんてない」
「サコ」
この子、ずっとわたしたちのことを見てたんだ。
そんなに一途に篤志のことを想ってるのかと思うと、少しかわいそうな気がしてきた。だって泣いてるし。こんな道端で嘘みたいに泣いてるし。
不意にサコはわたしたちのほうに向かって走ってきた。何事が起こったのかと思った。「バカ!」とサコは叫んだ。あ、と思うと篤志が目の前から消えた。
篤志はバランスを失って、車道とは反対側の草の生えた傾斜地を、その下の細い歩道まで転がって落ちていった。
なだらか、と言えばそうかもしれないけど、落ちてみたいと思ったことはなかった。
「きゃあ!」
考える間もなく、サコの脛に強い蹴りを入れる。つま先にうんと力を込めた。
「なんてことしてくれるのよ! 篤志になにかあったらどうすんの? 篤志が研究できなくなったらあんたのせいだからね!」
わたしは気をつけてその傾斜地を滑るように下った。
篤志は突然の展開に頭がついていかないようだったけれど、それ以上に打ったところが痛いようだった。
大丈夫、と声をかけると、大丈夫だよと強がりを言った。
「あんたなんか……あんたなんかあっちゃんに相応しくない! 研究することのなにがわかるって言うの? なんにもわかってないくせに! わたしにはわかる、同じ道を志してるから。これからあっちゃんは院に行って、教授を目指すの。でもその前に助教授になるのだってイス取りゲームみたいなもので誰にでもなれるわけじゃないの。それを黙って支えてあげられる? 待てる? ……わたしは待てる。だってわかってるもん、研究を続けるってことがどんなことなのか」
知ってる。
これから先の彼の目指す道のことなら。
わたしたちの歩く道はあまり平坦ではないことは予想していた。でもそんなことはどうでもよかった。わたしのしあわせはここにあって、ほかのどこにもない。例え山や谷や荒野があったとしても、わたしには彼しかいない。
笑うだろうか?
でも恋なんてそんなものじゃないだろうか?
すきで、すきで、すきで、理由なんてなにもない。彼がすきで、彼をすきなわたしがすきだ。それだけでいい。……それが、わたしが最近学んだことだ。窓ガラスを雨が濡らすあの高い塔の上で、大切なひとのそばにいることの奇跡を、そして大切なひとに代わりはいないのだということを学んだ。
だからわたしは舗道で足をさすっているサコを下から思い切りにらみつけた。
「わたしは篤志の重荷にならないって決めたの。そのためにもう逃げたりしないから。お金のことなら心配しないでいいよ。……わたしが篤志の足りない分のお金を出してあげる。俗っぽいかもしれないけど、お金がわたしたちを隔てるならわたしの持っているお金を使えばいいよ」
「珠里! あのお金はなるべく使わないって」
篤志を振り返る。
そんなに心配しないでいいのに。わたしは篤志より年上で、頼りなさそうに見えるかもしれないけどそれでも篤志より少しだけ世間を知ってるの。
「いいよ、出世払いで。篤志が出世したら今度はわたしをきっと養ってくれるでしょう? それでいいから。足りない時にはちっぽけな学歴なんかドブに捨てて、スーパーのレジ打ちでも保険の外交員でもなんでもやる。働いてる方が気が紛れるもの」
彼の顔を見て、最高の微笑みを作った。
大切に守ってきた、お父さんとお母さんの遺産。それは、わたしへのふたりの愛情の残り火だと思っていた。それを守り続けることが、両親とわたしを結びつけることなんだと。
でも違った。
それは、わたしがしあわせになるためのお金だ。使わなければ意味がない。そしていまがその時だ――。
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