第50話 ふたりの速さ

「珠里、それはもらえないよ」

「いいんだよ、わたしは篤志にそんなものじゃ足りないくらいのものをもらってるんだから」

 夏草をそよがせる程度の微かな風も吹かず、その場に居続けるだけでじわじわと汗がわたしたちを蝕んだ。

 痛っ、と言いながら篤志は上半身を起こそうとした。無理に起きない方がいいよ、とたしなめる。でも彼はわたしの忠告を聞き入れようとはしないで、顔を上げてわたしの目をじっと見た。


「珠里がいない間、俺にしてあげられることはなかったのかすごく考えたんだ。俺は珠里以外なにも持っていなくて、その珠里も離れていって。なによりも大切なのは珠里だし、なりふり構わずなんでもすればよかったんだって気がついたんだよ。――結婚しよう? この際、難しいことは考えないで俺の本当の意味での家族になってください。結婚にどれくらいの意味があるのかわからないけど、就職とか、進学とかに囚われないでふたりで『ひとつの家庭』を作ろう」

 わたしは両手で口を塞いだ。そうしないと自分の口から素っ頓狂な声が出てしまいそうな気がしたから。いつもと違う意味で『おかしな女』になってしまう。

 目にはいっぱい涙が溜まってきて、いまにも決壊しそうだった。心臓が早鐘を打つ。小刻みに自分が震えているのがわかる。


 いつものように飛びつきたい。でも我慢する。篤志はケガをしているし、衝動を抑える。

「珠里、結婚しよう。本当の『家族』になろう。いつまでもあのアパートからなかなか出られないかもしれないけどさ」

 はは、と照れくさそうに彼は無理して笑った。こんなところでサプライズすぎる。プロポーズってもっとロマンティックなシーンでされるのかと思っていたけど、これはこれでドラマティックだった。


「……バカじゃないの? そんなところでいきなりプロポーズする? だって学生結婚じゃない。あっちゃんには幻滅したよ。そんなひとだと思わなかった。むかしの女をいつまでも想ってるなんてバカ以外のなんでもない!」

「サコ……今日は悪いけど帰ってくれる? 今度またサコの気が済むまで話そう。俺たち、ふたりでよく話し合わなくちゃいけないみたいなんだ」

 そこまで篤志の話を聞くと、わたしが蹴った足の痛みはそれほどではなかったのか、彼女は猛然と走って夜道に消えてしまった。残ったのは足音だけだった。


 篤志とまたふたりになる。

 お互いに顔を見合わせる。

「俺は人生経験が少ない子供なのかもしれない。でもひとつ知ってることがあるよ。物事はシンプルに」

「そうだね、わたしもそう思う。つき合い始めた時に言った通り、わたしは身軽な女なの。男は篤志だけでいい。もうあのカバンを持ってアパートを出ることはなくなるんだよね?」

「なくなる。珠里がOKしてくれたらだけど」

「……本当にOKしてもいいの? わたし、相当重いよ」

「珠里のことはたぶん、いちばんよく知ってるよ」

 立てる? と聞くと、わからないな、と彼は笑った。落ちた時に庇おうとした右手が特に痛いんだと言った。


 あの、初めて飲んだ夜とは反対に、わたしは彼が傷めていない方の左肩から背負うような形でゆっくり、ゆっくりアパートまで帰った。

 それは小さくて古くて狭いけど、確かにわたしたちの『家』だった。わたしたちを受け入れてくれるやさしい入れ物だった。いままで、怖いものだと思っていてごめんなさい、と心の中で詫びる。


 翌日早く整形外科に行くと、篤志の右腕は見事に骨折していた。あとは足を軽くひねった程度で済んだ。

 折れたのが右腕だということは彼にとって致命的なんじゃないかと思った。よく知らないけれど、実験をする時の操作にも、それから記録を取る時も利き腕である右手が使えないというのは困るだろうから。

「あんなところに落ちるなんて、って笑われるんだよ」

 わたしも笑った。そしてキスをする。唇から伝わる気持ちがある。

「でも珠里を捕まえることができたんだから、骨折しても元は取れたよな」

 わたしはまた笑った。彼は左手でわたしを抱き寄せた。よく知った匂いがする。ああ、帰ってきてよかったなと思う。


「珠里、結婚なんてできっこないと思ってる? 子供っぽい幻想だと思う?」

「さあ、どうかなぁ。わたしは急がなくても構わないんだよ。それに学生結婚なんて将来に響かない?」

「なんとかなるよ、きっと。て言うか、なんとかしてみせる。結婚して繋ぎとめておきたいのは俺のほうだからさ」

「離婚は許さないよ。それから……しあわせにして? いい、篤志がいることがわたしのしあわせなの。それは結婚と同じことだけど、同じじゃないんだよ。忘れないで」

「うん、わかった。約束するよ」

 その根拠のない自信はどこからやって来るのかわからなかった。でもそう言った彼の横顔は爽やかでさっぱりしていた。

 篤志も気にしてたのかもしれない、いろいろと。例えば年下なこととか、収入が少ないこととか、将来が不安定なこととか。わたしはそんなこと、どうでもいいのに。

 彼はいつもわたしの期待に応えてくれていた。

 別れる前と同じく息を切らせて帰ってきてくれたり、わたしが一人にならないように気をつかってくれたり。抱きしめてキスをしてくれて、そのひとつひとつがどんなに素晴らしいことなのか、家出をしたわたしにはよくわかっていた。わたしはいつでも篤志に抱きしめられて守られている。

 彼の右手は折れてしまっていたけれど、わたしのための左手は空いていた。

 わたしはそれを愛した。

 篤志は「荷物が持てなくなるよ」と買い物の度に手をつなぐことを拒んだけれど、「いいの」と空いているわたしの左手で買い物した荷物を持った。

 夕暮れとは言え、涼しくはならない空の下、周りの速さに合わせずゆっくり歩いた。ふたりきりでいられる時間はどんな瞬間も愛おしかった。


『結婚』という言葉が出てから、ふたりでゼクシィを買った。その安さと反比例する厚さと重さに驚いたけれど、ぺらぺらめくって見てみると華やかで暖かいページの彩りに心弾む。

「珠里、その。指輪とかウェディングドレスとか、ちゃんとしてあげられるかわからない。ごめん。珠里のドレス姿、見たかったな」

 しゅんとした彼の髪に触れる。

 やわらかいその感触に癒される。

「心配ないよ。指輪は細いものを買えば安く済むし、ドレスならレンタルで写真だけ撮ればいいよ。詳しいでしょう? ここに載ってたの」

 にっこり笑う。

 なんの心配も要らない。だって一緒にいられればそれでいいんだもの。『結婚』なんてただの形で、じゃない。

「できるだけ早くしたいと思ってるけど……親の承諾だけ待って。一応、毎月お金も出してもらってる学生だしさ。親にしてみたら簡単な事じゃないと思うし」

「わかってるよ。わたし、ご両親の前で最高の笑顔で挨拶できるよ。篤志さんをくださいって、頭を下げられるよ」

「それ、立場が逆。でも珠里の笑顔に勝てる人は確かにいないよな。俺の親もすぐにやられちゃうよ。……珠里を育ててくれたひとたちにも挨拶しないとな」

 キスをする。

 約束をもらったことがうれしい。頬を寄せる。こんなにうれしいことはないから。

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