第33話 『愛』に意味なんてない

 宅配便が来て、大きな荷物をふたつ、部屋に運んでくれる。


『人をダメにするソファ』だ。


 わたしはそれに身を沈める。いい感じだ。真新しいソファは変わった匂いがしたけれど、それよりなによりこの部屋で新しい友だちができたことがうれしかった。

 テレビの前にふたつ並べて、それから考えた末にそのうちのひとつを窓際に移す。そうして外に向かって置く。窓の外が見える。

 この部屋から見える夜は、決して暗くならない。繁華街の明かりがそれを許さず、ぼんやりしたオレンジ色を描く。上を向けば星も見えない。闇は夜を塗りつぶすことができない。

 周りにあるはずのビルもここからだと目に入らない。このビルが高すぎるからだ。

 ――こっちの方向にあるはずのあの古くて小さなアパートを思い浮かべる。今日もまだ帰ってないだろう。

 皮肉なことに、わたしを守ると言った哲朗さんの方が篤志より帰りが遅かった。


 学校はこの辺りだろうか。見当をつけて目を凝らす。

 見えるわけないものを見ようとする。愚かな行為だ。


 ねぇ、もうわたしを忘れた?


 テーブルに置いたままのスマホを開く。今ではあまり使い途がないけれど、これは心のお守りだ。


『俺の気持ちは変わらないよ』


 トーク画面のミュートマークの付いたメッセージ。それを開いて既読を付けたりしない。聞いてないふりをして、こっそり彼の心のうちをのぞき見る。

 段々、メッセージの入る間隔が開いてきている。それを受け止めきれない。でもわたしこそ忘れなきゃいけない。忘れないと。


「珠里さん、明かりもつけないでどうしました?」

 ちょっと焦った声で哲朗さんが帰ってくる。今日は十一時半、午前様にはセーフだ。

「哲朗さん、今度、プラネタリウムに行きませんか? ほら、あの通りにあるでしょう? 歩いて行ったら遠いかしら。星空がみたいなぁ」

「晴れた日なら散歩がてらにいいんじゃないですか? 珠里さんがお望みなら行けるところはどこへでも」

 大袈裟な言い回しに笑ってしまう。

「今日は冷しゃぶですよ。梅さんと作ったの。すぐに食べられますよ」

「梅さんが珠里さんといると毎日楽しいって言っていましたよ」

 そうか、ふたりはたまに電話で話したりするのか。考えてみたらなにもおかしなことはなかった。雇用主は哲朗さんだ。

「娘ができたみたいだって」

 彼は苦笑した。

「姑が増えたら、珠里さんは大変でしょう」

 わたしは首を振った。それならいいけど、と言って抱きしめてきた彼のスーツは雨の匂いがした。いつの間に降り始めたのだろう?


 先にシャワーを使わせてもらって、基礎化粧を念入りにやる。

 もし見かけだけでもみんなが言うように優れているなら、それを大事にしなければいけない。

 哲朗さんの浴びるシャワーの音がする。

 こっそり、部屋に忍び込む。どさっと大の字になって待っているのはおかしいだろう。それでも出てくる音がしてから繕えば大丈夫かなと、起き上がるのが億劫になる。

 わたしのベッドとは違う匂いがする……。リネンには同じ柔軟剤を使っているのに。


『愛してるよ。無理しちゃダメだよ』


 もう、わたしのことなんて気にしなくていいのに。

 バタン、と浴室のドアが閉まる音がして、居住まいを正す。

 髪を拭きながら彼は部屋に入ってきた。いっそお酒の一杯でも引っかけておけばよかったかもしれない。そこまで気が回らなかった。

 でも彼を嫌いなわけじゃない。むしろ行き場を作ってくれたことに感謝している。胸が苦しい。百メートルを走るスタートラインに立った時のような、全身にピリつく緊張感。


「珠里さん、どうしました? 眠れませんか?」

「……ひとりじゃ眠れなくて」

 嘘ばっかり。さっき飲んだ睡眠導入剤のおかげでいつでも眠りに落ちそうだった。

「……どうしたらいいですか? って、いつかみたいだな。あの時はそばにいてあげられたらって思ったのに」

「じゃあ、その時に思ったようにしてください」

 わたしの隣に彼は座った。ベッドがその重みで沈む。その腕が怖々伸びてきて、わたしをゆったり遠慮がちに抱きしめる。

「まだ慣れなくて」

「そんなのおかしいわ。わたしたちは婚約するかもしれないのに。いまがいちばんいいときのはずなのに」

 唇をせがむ。震えているのはどっち? でもそれも最初だけで、あ、このひとにもこんなところがあったんだ、と思うくらい強く求められる。


「いいんですか? まだ試用期間ですよ。戻れなくなる」

「戻れなくして」

 ベッドでの作法は幸い知っていた。言葉にされなくても要求に応えることができる。大丈夫、きちんとやり通せる。

 ああ、彼はわたしを自分のすきにしたかったんだ。すきなように乱して、わたしのなにもかもを内側から変えたかったんだ。

「苦しくないですか?」

 苦しいです、胸の内が。頭に酸素が足りなくなるほど愛してくれたら、なにも考えずにいられるのに――。


「哲朗さん……」

 すがりつくものがここにはほかになにもない。

 彼以外にすがりつけない中、自分の内を守っていたって仕方ないじゃない。彼の庇護を受けなければ生きていけない。

「哲朗さん……」

「珠里。愛してる」

『愛』がなにを与えてくれるんだろう? それさえあればすべてが解決されるならここにいるはずもなかった。

『愛』なんて空っぽで無責任な言葉だ。『愛してる』なんて言葉に、もしも重みがあるんだとしたら。……胸を締めつけるこの痛みこそがきっと『愛』だ。

 わたしを苦しめるこの想いが『愛』だ。

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