第32話 地位でも名誉でもお金でもなく

 毎日は流れるように過ぎていく。

 洗濯機をかけてからいつも掃除の邪魔だと言われて、それでも梅さんのそばにいたくて足を上げてソファの上に座る。ルンバくんの邪魔はしたくないので。

「お嬢様、お好きなことをなさってていいんですよ。雑誌を読んだり、テレビを見たり。なんだかよくわかりませんけど、インターネットで映画を見られるようにもなっているらしいですよ」

「いいの、したいことは特にないの」

 そう言えばいつぞや、哲朗さんは『エターナル・サンシャイン』を見たと言っていた。わたしも久しぶりに見てみようかという気になったけれど内容を思い出してやめる。『失恋の記憶を消す』なんて、いまのわたしにはあまりにハマりすぎている。

 篤志との思い出を全部消したら、しあわせになれるかな? 消しゴムで消したように都合よくそこだけ消してしまったら。それは無理だ。ここまでわたしを立たせてきたのは篤志だ。篤志がいなかったらどっちみち、ここにわたしはいない。

 不思議なもので離れれば離れるほど客観的に。目の前にいた時のように何も見えない、というわけではなく、冷静に過去を見つめながら恋しさが増していく。それはあるいは溺れるよりタチが悪いのかもしれない。切なさに胸が鷲掴みにされる。

 この高い塔の上からはあの古くて小さいアパートは見えない。線路の向こうの雑多な家々の中に隠されて街の風景に溶け込んでいる。


 どうかしている。

 こんなことばかり考えて。

 重い女になるのはやめようと思ったのに。漂白剤につけたようなわたしを哲朗さんに愛してもらおうと思ったのに。

 どうかしている。


 食事はなにがすきなのかと聞かれて、麺類がすきなんだと答えると梅さんはお昼にうどんを出してくれた。「今日は蒸しますね」と言いながら、梅干しを添えた冷やしたぬきをふたりですすった。季節は梅雨になろうとしていた。


 思っていたように「遅くなります」という電話はわざわざかかってこなくなり、それは日常化した。わたしは毎日することがなく、ソファの上でルンバくんを見ているわたしを梅さんは買い物に誘った。

『有機野菜』と書かれたそれの値段はバカみたいに高くて目が回りそうになる。毎日いただいているご飯がそんなものでできていたなんて、と思うとすべて吐き出してしまいたい気がした。スーパーでなんでも底値で買っていたわたしの知らない世界だった。

「冷しゃぶならどうでしょう? しゃぶしゃぶ作戦は失敗でしたけど冷しゃぶなら先に作ってしまっても問題ないし、夜中に食べても胃もたれはしないんじゃないですか?」

 ああ、そうかも、と上の空でわたしは答えた。どうしてわざわざ有機野菜を使うのかという質問に梅さんは答えた。

「奥様が心配性なんです。坊ちゃんにまだわたしを付けるくらいですから」

 なるほど、手強そうなひとだ。


 地階での買い物を終えて一階の派手なブランド物のショーウィンドウの前で突然、梅さんが立ち止まる。

「お嬢様、こういうのお召になられたらいいのに。きっと何を着てもお似合いですよ」

「……哲朗さんの相手として、わたしのカッコは野暮ったい?」

「いえいえ、流行りなどもあるでしょうし、そうは思いませんけど。たまにはこういうものを身につけてお出かけなさっては? 坊ちゃんとクラッシックのコンサートとか、美術展とか、演劇なんかもいいじゃないですか。喜ばれますよ、きっと」

 わたしのすかすかな財布の中にはAMEXのゴールドカードが入っていた。なんでもすきに、と言われたけれどそうはいかない。

 第一、GUとUNIQLOと無印でできているわたしにはVISA付きのイオンカードで十分だった。ポイントだって付く。端数が出たらポイントで払える。自分のものを買う時はそれで支払っていた。

 ブランド物の服なんて贅沢だ。わたしのような女に似合うとはとても思えない。

 でも確かに、哲朗さんの隣に立つには必要なのかもしれないと、もう一度ショーウィンドウをのぞき込む。シャレたポーズのグレイのマネキンとは目が合うこともなかった。


 冷しゃぶなんて梅さんととっくに作り終わってしまった。野菜を切って、タレまで二種類も作った。

「そろそろ時間だよ」

「あらほんと。お嬢様と話してると時間が経つのが早いですねぇ」

 梅さんもいそいそと帰り支度を始める。

「あとはおひとりで大丈夫ですか?」

「たぶん」

 たぶん、哲朗さんが帰ってきてくれればだけど。

「坊ちゃん、仕事に熱心なのはいいですけどねぇ、夫婦はそれだけじゃ成り立ちませんから。坊ちゃんのワガママでお嬢様、仕事も辞めてしまわれたんでしょう? 夜ひとりで待つなんてイヤですよねぇ」

「うん、でも前の」

 違う、そんなひとはいない。


「前の方ですよね。そんなに簡単にひとの心は割り切れませんよ。前の方も遅かったんですか?」

「うん……哲朗さんといい勝負」

「前の方がいて、坊ちゃんは焦ったんですね。お嬢様を誰にも見せたくないんですよ。なんてバカげた独占欲なんだろうって思ったんですけど、お嬢様を見てわかりました。こんなに魅力的ならほかのひとも放っておかないですもの」

「……わたし、なにも特別じゃない」

「特別ですよ。それは言葉にできるものじゃなくて、お嬢様の内側から出るものですから本人にはわからないのかもしれませんね。立てば芍薬、座れば牡丹と言いますけど、まさにそんな感じですよ」

 芍薬でも牡丹でもないことは自分がいちばんよくわかっていた。わたしの内面は壊れている。砕かれた鏡の表面のようにひび割れている。


「目に見えなくても、匂い立つものがあるんですよ。……実はね、坊ちゃんもお嬢様に恋人がいるということはひどく気にしていて。気になるならやめてしまいなさい、と梅が言ったんです。それでもすきなら納得がいくまでとことんがんばってみればいいじゃないかと」

 哲朗さんの猛烈なアタックの裏にそんなことがあったなんて。

 梅さんは、ふふんと笑った。

「ああ見えて坊ちゃんは不言実行なんです。お嬢様のことを大切に思うからこそ、仕事をがんばってしまうんでしょうね」

 もしそうだとしたら、哲朗さんは全然わかっていない。

 わたしの求めるものは地位でも名誉でもお金でもなくて、このなにもない人生を埋めてくれるひとだ。それ以上なにもいらないのに。どうしてそれは伝わらないんだろう?


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