第31話 左手の薬指

 パッと明かりがついて気がつくと、そう言えば眠ってしまったんだと思い出す。薬は気持ちを和らげるけれど、その分、どうしても眠くなる。慌てて靴を脱ぐ音が響く。

「珠里さん」

 大股で歩いてきた哲朗さんをぼんやり見て起き上がる。

「……おかえりなさい、哲朗さん。ごめんなさい、わたし、眠ってたみたい」

 TVからはにぎやかな声が聴こえてきて、なにやらお笑い番組をやっているらしかった。最近の芸能人はよくわからない。篤志のところのテレビは小さかったので、ふたりともあまり見ようとは思わなかった。

 体を起こしたわたしを、哲朗さんは腕の中にふわっと閉じ込めてしまう。そうして額に大きな手のひらを当てた。仕事をする、大人の男の人の手だ。

「すみません、すっかり遅くなってしまって。心細かったでしょう。熱はありませんか?」

「ただ寝てしまっただけなんです……」

「ご飯はまだなんですね?」

 しっかりした手のひらが額に触れると、安心した顔で彼は微笑む。

 大きなデジタル時計を見ると、0時を過ぎていた。いつかの夜を思い出す。ああ、哲朗さんに電話してしまったあの日。


「すみません、ご飯、作りますね。簡単に作れるもの、何がいいかしら。ご飯は冷凍してあったかしら」

「珠里さん、あわてなくていいんです。あるもので大丈夫なんですから。とりあえず着替えてシャワーだけ浴びてきます」

 哲朗さんは安心した顔をして自室に行ってしまった。すぐにできるもの、と思ってスパゲッティにしようと思う。鍋にたっぷりの水を入れて、IHのコンロにかける。

 座り込む。

 まだここに来て数日なのに、もう音を上げるなんて早すぎる。堪え性というものがわたしにはない。

 哲朗さんがシャワーを浴びる水音が聞こえてくる。一日仕事をしてきて疲れているだろう。そんな時にわたしにできることはご飯を作ること以外ないのに。恥ずかしい、きちんとできないことが。こんなんではここもお払い箱になってしまう。


 鍋のお湯が沸いてバラバラッとパスタを放り入れる。

 そう言えばこんな日があった。真夜中にバラバラッとパスタを鍋に放り込んだのはわたしではなかった。

 エプロンの中にはスマホが入っている。もう誰もわたしを呼び出すひとはいない。篤志からの連絡は受けられるわけもない。すっかり鳴らない電話だ。

 いけないのに、見てしまう。パスタがゆで上がるまでの間だけ。

 篤志はさっぱりわたしのことなんか忘れてしまったかもしれないし、なかったことにしたかもしれない。こんなことになっても追いすがってくれなかった。どうにかして引き留めてくれなかった。

 ミュートにしたラインのメッセージを怖々と目にする。たった一言、新しいメッセージが『帰ってきて』と書かれていた。

 ――既読はつけない。

 心拍数がぐんと上がる。

 まだなんでもない顔をして、旅行かなにかに行ってきたという顔をして帰れるかもしれない 。いや、違う。彼を捨てたのはわたしだ。それはなかったことにならない。

 だから、それより前のメッセージは見られない。なにが書かれているのか見たい。もっと欲しがってほしい。


 たまにはそんな夜がある。まだきちんと心が彼から切り離されていない。ただそれだけのことだ。そのうちこのしあわせな生活に丸め込まれてなにもかも忘れてしまう。「あのひと、だれだっけ?」って。

 そして、それはたぶん篤志の方が先だ。

 いつまでもぐずぐず忘れられないのはわたしの方だ。二年も一緒に暮らしたんだもの、仕方ない。篤志にはお似合いの年下のかわいい彼女ができて、その子はきっとよく笑う子で、篤志が研究をがんばる姿を応援しちゃったりするに違いない。きっとそんなふうにふたりの人生はわたしの勝手からできた分岐点で、決定的に分かれていくんだ。

 間違えて力を入れすぎた消しゴムのせいでノートが破れていくように。きっと、そんなの一瞬だ。


「珠里さん」

「あ、すみません。ぼーっとしちゃって。茹ですぎちゃった」

「そう言えば、珠里さんのご両親にもそのうちご挨拶にうかがわないといけませんね」

「……ええ。三ヶ月経ったら」

 スマホを持つわたしを見て、相手は家族だと思ったのかもしれない。そんなものは、今はいない。強いていえば、哲朗さんが家族だ。

 スマホをポケットにするっと戻す。ザルにあけたスパゲッティから蒸気が勢いよく上がる。時間がないので野菜をさっさと切って、ナポリタンにする。

「珠里さん、言うのが遅れましたがこういう時はサボってもいいんですよ。梅さんが何種類かパスタソースを冷凍してくれてますから」

「……あ、そうなんですか。知らなかったので。お口に合わなかったらごめんなさい」

 急に気持ちがしぼむ。哲朗さんにはわたしの作ったナポリタンは口に合わないかもしれない。梅さんの料理は非の打ち所がなく完璧で、わたしの料理はいかにも庶民的だ。

 それをごまかすように粉チーズとタバスコを嫌ってほどかける。

「珠里さん、かけすぎ。いつもそんなにかけないでしょう?」

「……今日の気分ってやつです」

「さみしくさせましたか?」

「寝ていたのでそんなこと気にしてないですよ」

「早く帰れるよう、努力します。一緒にいられる時間が少なくなったら僕が残念だから。……手を出してください」

 よくわからないまま、フォークを置いて両手をテーブルの上に出す。哲朗さんはわたしの左手を取った。


「早く三ヶ月経つといいのに。そうしたらに、どんな指輪を贈ろうかな?」


 ドキドキするところなのかもしれない。でも何も感じない。心が動かない。現実感がない。ただ、ぼんやりとそこに輝くであろうプラチナの輝きが目に見えるような気がする。冷たい、金属の重み。

 三ヶ月なんてあっという間に経って、わたしはあなたのものになる。それが予定調和だ。運命はその方向に動いている。

「ナポリタン、味、大丈夫でしたか? ニンニクは入れなかったんですけど」

「お気づかいありがとうございます。美味しいですよ。手料理が食べられるなんて考えられなかったな、いままで」

 ここでキスのひとつもしてくれたらいいのに、と思ったけれど、テーブルの向こう側は遠かった。手が届いても、唇は届かなかった。

 タバスコをかけすぎたスパゲッティはやっぱり辛くて涙がにじんだ。「さみしい」なんて言葉は忘れた。

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