第30話 傘をさしかけるから

 梅さんは毎日仕事に来た。

 梅さんの仕事は九時から五時ナイントゥファイブで、水曜日と土日は休みだと教えてくれた。そして困った時のために連絡先まで教えてくれた。

 その日、哲朗さんは夜七時には帰ってきて、梅さんに会った感想を聞きたがった。

「明るくてお話し上手」

 わたしがそう言うと「それならよかった」と哲朗さんは先にシャワーを浴びた。

 わたしはその間、梅さんと作った料理を温めて盛りつけをする。梅さんとの楽しい時間を思うと、また一段と楽しくなる。当たり前のようにそれまでしていた料理が、誰かと作るとこんなに楽しいなんて知らなかった。

「シャワーあがりました」

「はい、もうできるところ」

 哲朗さんは台所まで回ってきて、エビフライを手にしていたわたしを後ろから抱きすくめた。

「珠里さん、ただいま」

「おかえりなさい。あの、ご飯です」

 そう言うと彼はパッと離れて必要な食器を取り出しに行った。耳元で「ただいま」とささやかれると、どうしても戸惑う。二十分先にあるあの家の明かりはまだついていないだろう。持ち主は帰ってきてないだろうから。


「どうしたの、ぼーっとして」

「なんでもないです。さあ、ご飯にしましょう。タルタルソースの作り方を今日は教わって」

「そう、それは楽しみだな」

 ふたりで「いただきます」をして、わたしは生ハムの乗ったサラダを取り分けた。

「珠里さんは生ハムはお好きですか?」

「はい。嫌いではないです」

「僕、好物なんです。じゃあ食卓に上がる頻度が多くても平気かな」

「大丈夫ですし、哲朗さんのお好きなものを食べてくださいね」

 そんな小さなことまで気にしてくれているなんて驚きだった。生ハムが食卓に上がって怒り出す人も少ないと思ったし。

 このひとはわたしを少しずつ侵食してダメにしていく気だろうか……? やさしくされればされるほど、妙に緊張する。自分がそれに値しないという気がして居づらい。慣れないイスの座り心地が悪い。

「どうかしましたか?」

「いえ、生ハムってあんまり食べたことないので味わっていたんです」

「たくさん食べてください。味わうのも今のうちだけですよ、きっとそのうち飽きますから」

 『生ハムメロン』とかも普通に食卓に乗るんだろうか? 生ハムもメロンも別々に食べて十分美味しいのに。


 月曜日も火曜日も梅さんと遊んでるうちに時間は過ぎていったけれど、水曜日はそうはいかなかった。梅さんは来ない。洗濯をして、トーストをかじっていると電話が鳴った。

『はい』

『珠里さん、ひとりで困ったことはないですか?』

『ええ、いまのところは』

 いまのところは、洗濯をして、ルンバで遊んで楽しく過ごしていた。

『僕、今日は遅くなりそうなんです。先にご飯、済ませちゃって構いませんし、寝てても構いませんよ』

 そんなに遅くなるのか……。昨日も一昨日も七時には帰ってきてくれたのに。あれは『普通』ではなかったのかもしれない。篤志だってそんなに早く帰ってくることは稀だったんだから。

『大丈夫です。ひとりは慣れていますから』

 すみません、とひとこと謝られて電話は音を無くした。

 嘘をついた。

 途方に暮れる。

 梅さんの提案で、今夜はしゃぶしゃぶだった。ひとりでしゃぶしゃぶというのも間が抜けているし、支度をするのにも時間がかからなかった。しゃぶしゃぶは誰かと一緒に食べるものだ。時間を持て余す。

 梅さんは、若いふたりが鍋を挟んで会話に花を咲かせるのを楽しみにしていたけれど、これじゃ残念な報告にしかならない。

 することも特にない。


 思えばわたしにはこれと言った趣味もなく、毎日を家事をするか合間にたっぷり休むのかといった具合に生きてきた。することもない。

 ただ、無為に持ち主不在のソファで転がっている。窓ガラスに斜めに細い線が引かれる。それはどんどん数を増して、雨が降り出したんだとわかる。洗濯物が、と思って腰を浮かせるところで思い直してまた沈む。洗濯物は浴室乾燥機だ。雨に濡れることはない。

 哲朗さんは傘を持って行ったかしら……。

 ふと心配になる。今朝は天気予報を見なかったので、タオルと傘を持たせるのを忘れてしまった。

 外回りにも出るって言っていたのに大丈夫かしら……?

 大きな傘をさす彼を想像する。大丈夫、きっと職場にも傘があるに違いない。梅雨時だ。これからは毎日、気をつけなくちゃ。じゃないと、わたしが気が気じゃない。

 持って行こうにもどこへ行ったらいいのかよくわからないし、それで迷惑かけたらいけない。わたしみたいな女がそばにいることを知られたら哲朗さんの足を引っ張る。


 ――わたしはいま、どうしてここにいるんだろう?

 わたしの居場所は……、思い出しそうになって記憶をもみ消す。居場所はここにしかないじゃない。自分からそう決めたじゃない。

 普段、見ることのないTVをつける。画面の向こうでは見ず知らずのキャスターが滑舌よくなにかをしゃべっている。

 緊張しているだけだ。軽い頭痛がして頭が重くなる。

 いつもの錠剤を飲み下す。効いているのかはわからない。TVをつけたままソファに横になる。天気予報は今日の天気についての説明をしている。薬が効いてきたのか、ゆったりした眠気に支配される。何もかも忘れて眠ってしまおう。やらなくちゃいけないこともないんだから……。

 雨音が強くなる。

 誰? 傘をさしてくれているのは。心配しなくても大丈夫だよ。ここは快適な部屋の中だもの。わたしより、あなたの肩が濡れている。あなたの肩を濡らしたのはわたし? その肩を何度拭っても乾かしてあげることはできなかった。

 

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