第29話 役に立たない女
――まぁ、素敵なお嬢様だこと!
大袈裟な表現をされて、わたしは縮こまった。
「坊ちゃんがこんなに素敵な方を連れてくるなんて思ってもみなかったんですよ。なんと言っても女性に興味がなくて仕事ばかりでしょう? てっきり会社で手頃な女性を見つけたのかと思ったら、まぁ」
「……いえ、そんなんじゃありません。わたしは居候で、哲朗さんに見合う人間じゃないです。『お嬢様』なんて呼ばないでください」
「謙遜なさらないで。坊ちゃんの大切な方なら『お嬢様』です。見た目だけじゃなくて家事も万能ですね? 梅にはわかりますよ。台所の片付け、満点です。ベッドメイクもお風呂場の掃除も。でも、そういうのはこの梅が全部やってしまいますからね、お嬢様はお好きなことをなさっててください。何しろお金をもらっているので賃金に見合う仕事をしないといけないんですよ」
一息にしゃべったあと、梅さんはチャーミングな顔をして笑った。
さぁ、仕事をしましょうかね、と彼女は背中を向けた。わたしのおばと同じくらいの歳だろうか? 『梅』とはまた古風な名前だな、と思う。本名だろうか? ダイニングチェアに座って、とりあえず何をしたらいいのかわからずに梅さんの後ろ姿を見ている。
「あ、洗濯物くらいはやります!」
ドラム式の洗濯機の扉を開けた梅さんが、怪訝そうな顔で振り返った。
「いえいえ、お手を汚すような仕事はなさらないでいいんですよ。第一、洗濯なんてものはこの洗濯機が勝手にやってくれますから」
「やらせてください」
「……そうですね、ご自分のものは洗われます? 確かに自分のものは自分で洗いたいという気持ちはわからないでもないですね」
「いえ、哲朗さんのも」
梅さんは手を止めて、わたしの座っている向かいの席に座った。
まさか対面で話すことになるなんて思わずにいたのでドキドキする。わたしの言っていることはおかしなことばかりなのかもしれない。庶民的すぎるか、あるいはその下の暮らしをしてきたことがバレるかもしれない。
「まだ婚約もなさってないんですから、坊ちゃんのことはほどほどでいいんですよ。大丈夫、そのことは坊ちゃんから聞いていますからご両親にはここにお嬢様がいることは内緒です」
あ、と思ったけど口を閉じて下を向くしかなかった。だって、何も言えない。わたしなんかが哲朗さんを試しているなんておこがましい。
自然に膝の上に置いてあった手をぎゅっと握っていた。
「確かにまだ婚約してないです。それでも一緒に暮らしているんですから、洗濯くらいさせてください。わたし、役に立たない女になっちゃうから」
「坊ちゃんはあなたのことをとても真剣に想っていらっしゃいますよ。これは本当です。坊ちゃんのお世話はお小さい頃からさせていただいていますけど、あんなに真剣な姿を見たことはないです。何しろ、そつがないですから、いままで苦労したことがほとんどない。それがあなたひとりに翻弄されて見向きもされないんだって、見ていて同情してしまうくらいでしたよ。もちろん、同棲なんてしかも急な話、反対したんですよ、梅も」
そういうと梅さんはころころ笑った。おおらかで裏表のないひとなんだなとわかる。
「反対しますよね、ふつう」
「しましたけど、お嬢様は合格。さぁ、洗濯やっちゃってくださいな。でも面倒な日は仰ってくださいよ。もともと、梅の仕事ですからね」
クローゼットのひとつを開くと、梅さんは掃除道具を取り出した。ぴかぴかの掃除機はわたしの憧れのメーカーのものだった。そしてそれとは別に小型のなにかを動かした。
「これがね、便利なんですよ」
「ルンバ」
「そうです、『ルンバ』。フローリングも敷物も勝手に掃除してくれるでしょう? まして坊ちゃんの部屋は余計な家具なんかはないですからね。ルンバひとつで床はピカピカなんです。わたしの家事もお金をいただいてるのに手抜きでね」
ルンバで掃除をするほどわたしたちの部屋は広くなかった。もし稼働させたとしてもすぐに掃除が終わるか、何かにつまづいて止まってしまったに違いない。
この部屋がいかに清潔で、整頓されているか、ルンバの挙動でわかる。
その間も梅さんはてきぱきと働いて、部屋をさらにピカピカにしてしまう。だからこそ生活感がいっそう失われた部屋ができてしまうんだろう。
「さて、ちょっとお茶にしますか」
どっこいしょ、と言うと彼女はキッチンの扉からお茶菓子とお茶を出してきた。……あれはうちの店で買ったお茶だ。なんだか知ってるひとに突然出会ってしまったときのような気持ちになって下を向く。恥ずかしい。
「クッキーでよろしいですか?」
「はい」
赤くなって小さくなっているわたしに、梅さんはお菓子とお茶を出してくれると、また対面に座った。
「お嬢様のお店のお茶ですってね。おかしいんですよ、ある日お茶を買ってきて、なにも言わずにそこの調理台に置いてあったりして。なんと、梅の分も買ってあったんですよ。そこには付箋が貼ってありましたけどね。『美味しいお茶を見つけたから』って」
ふふふ、とその時を思い出したのか梅さんは笑った。
「いつもはね、コーヒーしかお飲みにならないのに緑茶ですよ。笑いますでしょ? お嬢様にお会いしたくてお店に通ってたなんてもうおかしくて、おかしくてねぇ」
梅さんのいれたお茶はふつうの家庭と同じいれ方だった。多めの茶葉に熱湯をどっといれる。香りがたつが、渋みが出る。……でも、久しぶりに飲む、ひとのいれたふつうのお茶はとても懐かしい気がした。猫舌のわたしにはすぐに口をつけられなかったけれど。
「必死だったんですよ、ああ見えて」
どの角度から見ても、哲朗さんは明らかにプライドを捨ててわたしを欲してくれていた。
なにも言えない。
だから代わりに間の抜けたことを言った。
「今度、あのグレービーソースの作り方を教えてください」
「ええ、いいですよ。なんだか娘ができたみたいでうれしいですねぇ。わたしには息子しかいないんですよ。今日はグレービーソースの代わりにタルタル、作ってみます?」
湯のみを置いて、また彼女はころころ笑った。
哲朗さんの、たまに見せるちょっとのんびりしたところはこのひと譲りなのかもしれないとぼんやり思った。
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